連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
清水那月が空手を続けるモチベーション 結果を残すこと、それがみんなへの恩返し
競技中の凛とした佇まいが魅力の清水だが、キュートな素顔もまた魅力的だ 【岩本勝暁】
直感でわかる。誰からも愛される人だ。
翻って、コートに立てば鋭い視線で架空の相手をにらみつける。正確に繰り出される突きと蹴り。凛とした佇まいは、まるで同じ人物に思えない。
「めっちゃ言われます。高校でも大学でも、学年が上がると後輩が入ってくるじゃないですか。試合でしか私を見たことがない人は、たいていビビって入ってくる。逆に友達とか、普段の私を知っている人が試合を見ると『全然違うじゃん』って」
そう言って、また笑った。
空手を始めたきっかけは「アメ」
「アメがほしい子が、一列に並んで待っているんです。私もお兄ちゃんの後ろにひょこっと並んでいました。そうしたら、他の子から『空手をやっていない子はダメだよ』って言われて(笑)。渋々家に帰って、お母さんに『ナツも空手やる!』って言ったのを覚えています」
環境にも恵まれた。小学1年で全国大会に出場。結果を残すことで自信がついた。上達の動機づけとしては、それだけで十分だった。やっていくうちに空手がどんどん楽しくなっていった。
「全国各地に知り合いができるのがうれしかったです。ナショナルチームに入ったら外国人の知り合いもできる。そうやって人と関わることが好きで、『久しぶりにあの子に会えるね』『あの子に負けないように頑張ろう』『あの子も頑張ってるよ』と言って頑張ってきました」
「形(かた)」に魅了されるのも自然の成り行きだった。
競技としての空手には大きく分けて2つある。空手を始めた頃は、二人が1対1で戦う「組手」で出場していた。ある時、「ちょっと形でも出てみようかな」という気持ちになった。小学3年の時だ。
すると、全国大会でいきなり準優勝。「形の方が合っているのかな」。道が大きく開けた。
生涯の恩師と、忘れられない大会
中学から空手に専念。高崎商大附高時代に生涯の恩師と出会う 【岩本勝暁】
人との関わりを豊かにする素地は、この頃に育まれたものだ。
「国際色が豊かなところです。クラスにもたくさんの外国人がいて、それが普通だと思っていました」
学校の近くにあった公園が遊び場だった。“おてんば”で、いつも外を走り回っていた。
「小学3年から6年までクラシックバレエをやっていました。その前は、器械体操をかじっています。学校を代表して、駅伝大会や陸上大会に出場することもありました。50メートルハードルでは郡で一番になったんですよ」
中学に入ると空手一本に専念。中学2年で世界への扉を開く。マレーシアで行われた「第7回世界ジュニア&カデット21アンダー空手道選手権大会」で優勝。一躍、注目を集める存在になった。
高崎商大付高に進学すると、生涯の恩師に出会う。空手道部の安斉義宏監督だ。礼儀作法を学んだ。相手、そして他校に対する感謝の気持ちを重んじるようになった。自分たちが今、空手ができているのは当たり前のことではない。言葉ではなく、人として大事なことを安斉監督の背中から感じ取った。
忘れられない大会がある。清水が高校3年の時、指導者として一線を離れていた安斉監督が一時的にコーチボックスに入ってくれた。
「その時はもう監督ではなかったんです。だけど、『コーチとして一緒に試合に出たい』と安斉先生から言ってくださった。私たちの代は先生のことがとても好きで、うれしくてみんなで泣いたことを覚えています」
同志社大3年時には、神戸で開催された世界大学選手権で優勝。一躍、東京五輪の代表候補に名乗りを上げた。