「松坂」の横浜と「KK」のPLが対戦したら…野球脳の高さと、3年間トータルの強さ
1位に輝いたのはやはり……
夏の甲子園決勝でノーヒットノーランを達成した松坂大輔(写真中央)。年間の公式戦無敗という大記録を成し遂げた 【写真は共同】
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98年横浜の凄みは「対戦相手の強さ」にも現れる
勝ち方もすごい。夏の準々決勝ではPLと延長17回の名勝負を演じ、明徳義塾との準決勝では、松坂の先発回避でつけられた6点差を8、9回だけでひっくり返した。決勝は、松坂が京都成章をノーヒット・ノーラン。97年秋から公式戦無敗の44連勝で神宮、センバツ、選手権、そして国体まで、前人未踏の完全制覇を成し遂げてしまった。京都成章・奥本保昭監督(当時)は「どんだけの星の下に生まれたら、あれだけのことができるのか……」と脱帽していた。
松坂、小山良男、後藤武敏、小池正晃と、4人のプロ選手を擁した戦力は確かに分厚い。ただ、当時の渡辺元智監督が強調するのは、野球の知的能力の高さだ。
たとえば明徳を大逆転した試合。2点差で迎えた9回裏、先頭打者が安打で出たあと、次打者の加藤重之がセーフティーバントを成功させた。もともとスイッチヒッターだが、左打席の調子が悪く、この大会では投手の左右にかかわらず右打席で打っていた。それが、右サイドの高橋に対したこの打席に限っては左打席に立ち、自分の判断で初球にセーフティーバントを成功。これが奇跡のサヨナラ劇を呼んでいる。あるいは、決勝で先制ホームランを放った松本勉。投球と同時に相手の遊撃手が三遊間を締めたのを察知し、インコースと読み切って「1、2の3で思い切り振り切った」。その結果が、渡辺監督さえ「アイツに限ってはありえない」というホームランにつながったのだ。
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もし可能なら……
数々の伝説を作り上げた、桑田真澄と清原和博のコンビ 【写真は共同】
「2回戦からの登場なので、1試合少ないやんけ――と、抽選を引いた僕に文句をつけるんです。試合は自分を表現するところで、1打席でも多く打ちたいから、先攻を取れといわれるんです。逆転のPLなのに(笑)。1試合少なければ、なおさら不満なわけですよ」
やっと試合ができる――と満を持していた集団は、東海大山形に史上初の毎回得点、1試合最多の29得点と大爆発するわけだ。そこからも津久見に3対0、準々決勝は高知商に6対3。PLはその年のセンバツで、伊野商に敗れている。清原は、渡辺智男になんと3三振。その伊野商を破って出場した高知商のエース・中山裕章を打てば、少しは借りを返したことになる――とばかりに、清原が打った。5回の第3打席、左中間に推定距離140メートルの大アーチ。中山のストレートと清原のスイングスピードにより、金属バットがへこんだという逸話が残っている。ここからの清原は、準決勝で2HR、宇部商との決勝でも2HR。3試合で10打数8安打5HRとなんともすさまじい。
エース・桑田も、優勝までの計5試合で完封1を含み、39回を投げて自責7だ。ただ、これは傑出してはいるが、べらぼうにすごい数字ではない。打力がはるかに進化した13年後、98年の松坂は、PL戦を除けば5試合37回を投げて自責0なのだ。だが……もし98年の横浜と85年のPLが対戦したら、いかに松坂でも、そう簡単に抑えられるとは思えない。当時のPLからはKK以外にも内匠政博、松山、今久留主成幸と、5人がプロ入りしているのだ。
その頃のPLは、ひんぱんにチーム内で紅白戦を行っていた。少数ながら精鋭ぞろいだから、それは大阪大会の決勝レベルだったという。負ければペナルティーが待っている真剣勝負。だから登板すると桑田は、フォークなどの多彩な変化球を駆使して、チームメイトを牛耳った。ただし甲子園になると桑田は、ほかの変化球を封印し、直球とカーブだけで相手打線に対峙した。ピンチにマウンドに集まった時、清原が「フォーク使えば簡単やろ?」と桑田に助言しても、「カーブだけで通用しなければ、プロに行っても大成できない」とカーブ一本で押し切ったという。それでいて甲子園通算20勝という桑田には、なんともため息が出る。
もし可能なら、だ。全変化球を解禁した桑田と松坂が投げ合う、PLと横浜の対戦を見てみたい。
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