連載:イチロー取材記 駆け抜けた19年

イチロー引退の日、何が起きていたのか 「3.21」ドキュメント

丹羽政善

イチローの最後、それぞれの思い

現役最後の試合は8回裏で交代。チームメート全員でイチローをねぎらった 【Getty Images】

 イチローも何事もなかったかのようにライトへ向かった。だが、ややあってサービス監督がベンチを出て、主審の元に歩み寄った。

 21時33分、客席のファンもそのときを知った。

 レーザービームの名付け親として知られる実況のマイク・リーズがその場面を述懐する。

「8回裏に交代を告げられたとき、これが最後だと分かった」

 実況に思いを込めた。

「国全体がひとりのアスリートに対して、あれほどの愛情を示したことは今までなかったかもしれない。あの場面に立ち会い、伝えることができたことはうれしかった」

 ゆっくり三塁側のベンチ前に戻ってきたイチローは、選手一人一人とハグ。マイク・リークがイチローの耳元で一言、二言、ささやいた。

 あのとき、なんと言ったのか?

「チームメートになれて光栄だった、って伝えた」

 彼もまた、子供の頃、イチローに憧れたひとりである。

「高校時代は外野手だったから、当時はイチローをお手本にしていた。その4年間はどの選手よりもイチローに注目していた」

 リークには忘れられないイチローとの会話がある。

「ロサンゼルスでのことだ」

 どんな話を?

「彼からペドロ・マルティネスの投球に似ていると言われたんだ。ペドロのメジャーリーグでの功績を考えると、僕は到底、ペドロには及ばない。イチローから最大の誉め言葉をもらった気がした」

 試合は、延長にもつれ込んだ。

 12回に勝ち越すとマリナーズが連勝したが、その後、選手らはクラブハウス横のラウンジに集まった。ディー・ゴードンはイチローのそばから離れなかった。

 このときのリークの証言が興味深い。

「あのときはまず、 スコット(・サービス監督)がイチローの功績を称えた。続いてイチローが感動的なスピーチをした」

 それでも、「決して、引退という言葉を口にしていない」とリークは言う。

「引退を想像させるような言い方だったけど、彼からこれで終わりだという印象も受けたことはなかった」

 マルコ・ゴンザレスも似たような話をしていたが、一方で、やはりあの場にいたスタントン会長はこう証言した。「イチローは、選手たちが食事をするラウンジで、引退する意向をチームに伝えた」。ゴードンも言っている。

「彼はラウンジで引退の意向を明かした。とても悲しかった。誰よりもショックを受けた」

 引退のことを事前に知らなかったリークらと、知っていた2人では受け取り方が違う。

ゴードンは感謝を伝えられなかったが……

 その後、ブルペンに移動して米メディアに対応したイチロー。おそらくそのとき初めて、「引退」という言葉を使った。

「本日をもって……引退することを決断いたしました」

 会見を終えると、足を運んだメルビン監督に謝意を伝えたイチロー。通訳のアレン・ターナーから、ファンが残っていることを伝えられたのは、その後だ。

 ゴードンらによれば、この後、ケン・グリフィーJr.がイチローに、「早く、行ってこい!」と促したそうだ。イチローがダグアウトから出てきたとき、ゴードンが後ろから続いた。スマートフォンでその様子を撮影をしながら。

 ところで、あのときゴードンは、イチローも同じチャーター便でシアトルに戻ると思っていたという。そこでゆっくりと感謝を伝えるつもりだった。

「でも、ホテルで報道陣に対応していると聞いた」

 ただ、結果的にそれが、感謝広告というアイディアにつながっていく。シアトルに戻り、時差ボケで眠れなかった。そのときに思いついた。

「会えなかったし、日本にいる彼には電話もできないと思ったので、あれが一番いい方法だと思った」

 感謝広告は28日(現地時間、日本時間29日)のマリナーズの米国開幕戦に合わせて、『シアトル・タイムズ』紙に掲載された。

 チームメートを乗せた飛行機が羽田空港を飛び立った頃、イチローはまだ、会見場にいた。23時55分から始まった会見が終わったのは、日付が変わった25時20分のことだった。

 深々と一礼をし、衝立ての裏に消えたイチロー。東京ドームで待っていると、ややあってユニフォーム姿のイチローが地下通路ではなく、関係者の出入り口から戻ってきた。地下通路へつながる一塁側通路で待機していたカメラマンらが慌てて移動してきたが、そのときにはもう、イチローは三塁側のクラブハウスに消えた後だった。

 待つことおよそ20分、いや、30分。私服姿のイチローがクラブハウスから姿を見せた。
 最後のあいさつを交わす。寂しげ、という感じではなかった。笑みさえ浮かべていた。まるで、現役生活が明日からも当たり前のように続く――そう錯覚しそうなぐらいに、普段通りだった。

 その背を見送り、東京ドームを出る。26時30分を過ぎていた。

※リンク先は外部サイトの場合があります

2/2ページ

著者プロフィール

1967年、愛知県生まれ。立教大学経済学部卒業。出版社に勤務の後、95年秋に渡米。インディアナ州立大学スポーツマネージメント学部卒業。シアトルに居を構え、MLB、NBAなど現地のスポーツを精力的に取材し、コラムや記事の配信を行う。3月24日、日本経済新聞出版社より、「イチロー・フィールド」(野球を超えた人生哲学)を上梓する。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント