28歳、美しさと気品はそのままに――ヒシアマゾンと私の数奇な出会い
「牝馬の時代」のさきがけ
「牝馬の時代」を先取りしていた女傑ヒシアマゾン、その美しさと気品は今も色褪せていない(2017年8月9日 ポログリーンステーブルにて) 【撮影:カズ石田 (Kaz Ishida)】
そのような牝馬の時代の中で、私の印象に残っているのがエアグルーヴの少し前、まだ“牡馬の時代”に競走生活を日本で送っていたヒシアマゾンである。そのヒシアマゾンと私の“数奇な運命”を少し書かせて頂きます。
1995年秋、まるでモデルのようないでたちだった
その年の9月のオールカマー。そこで私は初めてヒシアマゾンを競馬場で見た。家庭では単身赴任先から戻っていた父と、当時同居していた兄も「ヒシアマゾンはここが正念場」と口を揃え、中山競馬場へ続く地下通路を歩いていたときも「今日はヒシアマゾン、どうする?(買うか買わないか)」という周囲の会話ばかりが耳に入ってきた。そうだからだろうか、中山競馬場に到着したころには私も「今日はヒシアマゾン、勝てるのかな?」と思うようになっていた。
事前に購読していた競馬週刊誌から得た知識によると、このヒシアマゾンはアメリカ生まれの牝馬、メス馬で、数々の強敵を破り前年の有馬記念では三冠馬ナリタブライアンに果敢に挑んで2着と健闘した。そして、この年のはじめにアメリカへ遠征したが、脚部不安によりレースへの出走を断念して帰国。その後、当時GIIだった高松宮記念ではデビュー以来初めて連を外してしまい、ここは女王復権を賭けての出走だった。
「外国、それもアメリカで生まれたのだからメス馬だけど力がとても強いのかな?」とくらいに私は思っていたのだが……迎えたオールカマー出走馬のパドック登場で一際目立っていた馬が目に入った。ヒシアマゾンだった。綺麗な漆黒の馬体、長い脚、気品あふれる顔、まるでモデルのようないでたちだった。
そしてレースでは、のちにハーツクライを産んだアイリッシュダンスの猛追をしりぞけて勝利。台風の影響により月曜日の開催ながらも競馬場にかけつけた多くのファンから拍手がわき起こった。あのような拍手を日本の競馬場で見たのはあれが最初で最後である。またウィナーズサークルでのヒシアマゾンは、大型画面に映し出されたレースリプレイの映像で見せていた、目を釣り上げて闘志を表に出していたものとは異なって大変優しい瞳になっていた。
このオールカマーでヒシアマゾンの存在は私の頭に刻み込まれ、すっかりファンになってしまったのだった。
フリーカメラマンに転身、全米各地の競馬を撮り続ける日々
そんな中、私に一つの幸運が巡ってきた。とある日本在住のアメリカ人カメラマンがかつて、日本の競馬シーンを米国のエクリプススポーツワイヤ社等へ配信する仕事をしていたのだが、その方がカメラマンを引退。代わりに日本の競馬シーンを撮影してくれるカメラマンとして、私に声を掛けてくれたのだった。
もちろん私はそのオファーを快諾。JRAから取材許可証も貸与され、日本をはじめ、米国、香港など世界の競馬シーンを回ってビッグレースの撮影に明け暮れる日々となった。その後2016年の秋に米国競馬の秋の祭典、ブリーダーズカップのオフィシャルフォトグラファーとして、新しい競馬シーンで仕事をさせていただけることにもなったのである。
毎年11月上旬にはその米国のブリーダーズカップへ行き、そのほかにも年に数回渡米して全米各地の競馬へ出かける日々。そんな生活を無我夢中で続けている中でのことだった。