2001年 toto本販売をめぐって<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
黄色いタブロイド紙『totoONE』の創刊
人気予想誌『totoONE』の初代編集長を務めた岩本義弘 【宇都宮徹壱】
元totoONE編集長の岩本義弘は、創刊当時の状況をこのように語る。発行元のフロムワンは、1998年にできたばかり。サッカーキングをはじめとしたWebメディア、国内外のサッカー情報誌や大会プログラムの製作、イベントの開催やフットサルコートの運営など、サッカーに関するさまざまな事業を手がける同社だが、設立当初は中途入社の岩本を含めて5名前後しかいなかったという。
「僕がフロムワンに入社したのは、フランスのW杯から戻った直後でした。ちょうどその直後に、ヒデ(中田英寿)のペルージャ移籍が決まって、セリエAがめちゃくちゃ盛り上がった。『CALCiO2002』が創刊されたのは、まさにそのタイミングでした。実は当時の社長から『この創刊号がコケたら、3号までしか出せない。この会社もおしまいだ』って言われていたんです。中田英寿がイタリアでブレークしなかったら、雑誌も会社も速攻でつぶれていたと思います(苦笑)」
CALCiO2002に続く二の矢が、totoONEであった。文部省(当時)の肝いりでスタートしたスポーツ振興くじに、ビジネスとしての大きな可能性があることは間違いない。一方で岩本は、セリエAの現地取材を通じて、トトカルチョの面白さを体験していたので「これはいける!」という確信もあった。かくして01年3月3日のtoto本販売に向けて、totoONE創刊の準備が始まった。そのコンセプトについて、初代編集長はこう語る。
「totoONEは黄色いタブロイド紙からスタートしたんですよね。イタリアの『ガゼッタ・デッロ・スポルト』がピンクだったので、こっちはtotoカラーの黄色で行こうと。実はtotoの本発売に向けて、あの時は雑誌を含めて20近くの媒体ができたんです。それに対してウチは新聞という形にこだわりました。当時はネットメディアも出てきていましたが、まだスマートフォンがなかった時代ですから、ビジネスにはなっていなかった。雑誌と比べて新聞のほうが情報は速いし、コストも10分の1くらいで収まりますから、『絶対にこっちだ』と思いましたね」
ライバル誌がなくなる中、生き残ったtotoONE
totoの販売開始を多くのスポーツ紙が伝え、予想本も乱立した 【写真は共同】
「今では考えられないくらい、バリエーションが豊かでした。解説者の早野宏史さん、騎手の福永祐一さん、水泳の岩崎恭子さん、サッカー好きで有名なテレビ朝日アナウンサーの萩野志保子さん、鹿島アントラーズのサポーターで知られる電撃ネットワークのギュウゾウさん。僕がほとんどのメンバーに電話して、原稿を書いていたんですけれど、まあ大変でした(苦笑)。僕の編集方針は『サッカーファン向けの情報はいらない。当てるための情報をたくさんそろえる』。どちらかというと、競馬新聞に近い作りを意識していましたね」
しかし前述したとおり、初年度こそ盛り上がったtotoは、年を追うごとに売上金額も助成事業費も下がっていく。百花繚乱で創刊したtoto媒体が、バタバタと店じまいをする中、それでもtotoONEは生き残った。ただし、新聞が売れていたというわけではなかったようだ。
「totoONEがなぜ生き残ったかというと、単純に他の媒体がすぐに消えてしまったからなんですよね。数が多すぎたというのもあるし、スポーツ紙のコーナー予想を読めば事足りるというのもありました。そもそも雑誌のtoto予想は、すぐに情報が古びてしまうわけで、僕に言わせれば予想情報として成立していなかったです。もちろんウチも厳しかったですが、ほかが撤退したことで半分オフィシャル媒体のような扱いになりました。totoの販促物もウチで作らせてもらいましたし。ですからtotoONEそのものよりも、toto関連の受注仕事の売上がすごくて、それで会社そのものが(経営的に)救われた部分もありましたね」
岩本はこの年、totoONEのみならず、SOCCERZとCALCiO2002の編集長も兼任し、29歳の若さでフロムワンの役員にも選出される。その後、同社の社長にまで上り詰めた岩本だが、編集長を退いて以降もtotoONEでの予想連載を担当。第1回から第987回までの17年間、一度も途切れることなく営々と続けられることとなった。