1996年 「百年構想」誕生秘話<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
「100年後までの時限プロジェクトではない」
鹿島アントラーズの優勝で幕を閉じた1996年シーズン。この年に「百年構想」という言葉が生まれた 【(C)J.LEAGUE】
2018年シーズンのJリーグが開幕する年の1月、村井満チェアマンにインタビューした際のコメントの抜粋である。1993年にJリーグが開幕して、今年で25年。「百年構想」をうたってきたJリーグゆえに、チェアマンである村井が「次の四半世紀に向けて」と発言するのは当然のことと言えよう。しかし村井の考えには共鳴しつつも、100年のうちの25年という百年構想の捉え方に違和感を覚える人も存在するのではないだろうか。すなわち「百年構想というのは、開幕から100年後までの時限プロジェクトではない」という考え方であり、換言するなら「それくらい長い時間をかけて取り組む」という覚悟が、「百年」の二文字には込められていると。
そもそも「百年構想」という言葉は、Jリーグ開幕当初から存在していたわけではない。もともとは96年シーズンの開幕に合わせて作られた、キャンペーンのキャッチコピーであった。それから22年が経過し、Jリーグ内部でも微妙なグラデーションが見られるようになった百年構想だが、それが今なおJリーグの理念の根幹となっていることについては、誰もが認めるところであろう。ではなぜ、96年というタイミングで百年構想は生まれたのか? そして、この秀逸なコピーを考えたのは、いったい誰だったのだろうか?
「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第19回となる今回は、1996年(平成8年)をピックアップする。28年ぶりの出場となったアトランタ五輪で、西野朗監督率いる日本代表がブラジル代表にアップセットを演じた「マイアミの奇跡」に日本中が沸いたこの年。しかし開幕から4年目を迎えたJリーグは、平均入場者数が前年の1万6922人から1万3353人にまで減少している。「もはやブームは終わった」とメディアが盛んに報じる中、「われわれは一過性のブームでなく、壮大な理念をもって活動している」として、Jリーグが世に訴えたのが「百年構想」であった。
「百年構想」を提案したのは電通だった
周知のとおり、Jリーグの黎明期を支えてきたのは博報堂であった。業界最大手の電通は、トヨタカップやキリンカップといったサッカーイベントには積極的に関わっていたものの、当初は「国内リーグのプロ化」には懐疑的であった。その間隙(かんげき)を突くように、博報堂はJリーグのスタートアップに深く関わるようになり、スポンサー営業からメディアプロモーションに至るほぼすべての案件を独占するようになる。両者の親密な関係は、Jリーグがパートナーを博報堂から電通に切り替える2010年まで続いた。そうした経緯から、百年構想もてっきり博報堂の仕事だと思っていたのだが、どうやら違っていたらしい。
「確かにJリーグに関しては、ウチ(電通)は完全に出遅れてしまいました。それでも何とかきっかけを作ろうと、地道に営業をかけていました。特に熱心だったのが14営(業局)の堀沢(紳)部長。この人はサッカー経験者で、『ウチでできることがあれば何でも言ってください』という感じで、(当時)神田にあったJリーグのオフィスに足しげく通っていたようです」
後日、あらためて杉谷に取材を申し込むと、当時の電通とJリーグの状況をこのように説明してくれた。その突破口を開いたのが、14営の堀沢部長という人物。エリートビジネスマンのイメージが強い電通だが、こうした「御用聞き」を厭わない地道な営業スタイルこそが、実は彼らの本質なのかもしれない。その日は、同じクリエイティブ局の木村史紅も同席。当時、入社5年目だった木村は、アートディレクターとして百年構想のプレゼンに関わっている。以下、木村の証言。
「96年にJリーグが企業広告を打つことになって、それがコンペ形式になると。そこで(前年の)12月、その仕事がクリエイティブ局に降りてきたという感じでしたね。私はオリエンには参加していませんでしたが、そこで伝えられたのは『これはサッカーのプロモーションではない』ということ。サッカーを盛り上げるのは各クラブの仕事ですが、Jリーグとしてどこに向かっていくのか? ということを発信していきたいというお話だったと記憶しています」