唯一無二だった“美しき”スケーター パトリック・チャン引退に感じる寂しさ

野口美恵

魅力ある圧倒的なスケーティング

引退を表明したパトリック・チャン。圧倒的で美しいスケーティングが魅力だった 【Photo by Harry How/Getty Images】

 パトリック・チャン(カナダ)が4月16日、27歳での引退を表明した。母国開催の重圧を背負った2010年バンクーバー五輪、銀メダルを獲得した14年ソチ五輪、そしてベテランとして境地の滑りを見せた18年平昌五輪と、10余年にわたり男子フィギュアスケート界を牽引(けんいん)してきた。今季での引退はもともと示唆していたが、あらためて引退と聞くと、彼の美しいスケーティングを試合会場で見られなくなることに寂しい気持ちでいっぱいだ。

 チャンは引退会見で「選手としては夢を叶えましたし、悔いはありません。これからは新しい夢と挑戦に向かっていきたい」とコメント。今後は、プロスケーターとして活動する一方で、バンクーバーに建設中のスケートスクールを運営していくことを目標に掲げた。

 チャンといえば、圧倒的なスケーティング力が魅力だ。何と言っても一歩目の加速が違う。ブレードの一番良いポイントに体重を乗せて、バランスをコントロールすることで、蹴っていないのに加速する。まるで自動運転のターボが積まれているかのようだ。これはダイヤモンドと呼ばれるスポットをつかんでいるためで、現役時代に体得している選手はほとんどいないと言われる境地でもある。エッジの使い方で自由自在に方向転換も加減速も行えるので、滑りそのものが多彩で魅力的になる。

 その滑りを身につけた要因は、幼い頃に徹底したコンパルソリーにある、と言われてきた。コンパルソリーとは、氷上に決められた図形を描きながら滑るもので、1990年までは試合課題の1つだった。イン・アウト・フォア・バック(前後左右)のすべての滑りを緻密にコントロールするため、正確なエッジワークが身につく。2006年に逝去されるまで師事していた、オズボーン・コルソン氏の指導によるたまものだった。

世界選手権3連覇、迎えた黄金時代

11年から13年にかけて世界選手権を3連覇を飾るなど黄金時代を迎えた 【写真:ロイター/アフロ】

 その基礎力を武器に、チャンは07年世界ジュニア選手権で銀メダル。すでに滑りはシニアのトップクラスに匹敵するものを持っており、チャンは「僕の滑りはコルソン先生のお陰です」と感謝を口にしていた。そして翌シーズンにはグランプリ(GP)シリーズのフランス杯で早くも優勝。シニアのトップレベルで戦えることを証明した。

 地元カナダの期待を背負ったバンクーバー五輪では5位。当時、4回転を跳ばない金メダリストが生まれたことで「男子に4回転は必要か」という論争が起きたが、滑りを武器にしてきたチャンは、「スケートの魅力はジャンプだけではなく、滑りや演技、そしてスピン、ステップすべての総合力にある」とコメント。一方で、時代を見越して4回転の練習を開始した。

 やはり基礎のスケーティングが安定していると、ジャンプの習得も早かった。チャンは練習を始めるとその夏のうちに4回転を体得。10年のスケートカナダでは4回転トウループを初成功し、カナダ選手権ではショートプログラム、フリースケーティングを通じて計3本の4回転を降りて周囲を驚かせた。何と言ってもチャンの4回転は、飛距離がありダイナミックで、加点もつくジャンプだった。

 その後は、美しいスケーティングと力強い4回転を武器に、11年から世界選手権を3連覇。チャンの黄金時代を迎えた。

見る者を感嘆させた13年フランス杯

チャンの最高の演技と言えば、13年のフランス杯が挙がる。当時の世界最高得点をマークした演技はまさに圧巻だった 【写真:アフロ】

 チャンの最高の演技といえば、やはり自己ベストを記録した13年フランス杯だろう。ソチ五輪シーズンのGPシリーズで、当時のチャンは世界選手権3連覇中。五輪の優勝も確実視されていた時期だ。五輪に向けて最も脂がのっているタイミングだった。

 当時の4回転は、ショートで1本、フリーで2本。すべてのジャンプをクリーンに降り、4回転ではGOE(出来栄え点)で「+3」を多くのジャッジから獲得。また演技構成点も「演技」「振付」「音楽解釈」の3項目で何人ものジャッジから「10点満点」の評価を受けた。

 特にフリーの『四季』は、チャンの代表曲とも言える名プログラムだった。恩師コルソン氏のリクエストで06−07シーズンに滑った曲を、編曲し直したものだ。「子供の頃にコルソン先生に習ったステップやフットワークがあちこちに散りばめられていて、僕にとって心地よいプログラム」とチャンは話していた。非常に難しいフットワークが休む間もなく詰め込まれているが、まったく減速することなく、常にものすごい疾走感を感じさせてくれた。あえて奇抜な踊りやポースは入れていないことで、滑りの正確さが際立つ。滑らかさ、ダイナミックさ、深いエッジワーク、加減速、間の取り方……滑りの随所に魅力があり、私自身も取材であることを忘れて、演技を見ながら何度も感嘆のため息をついた。

 チャンのマークしたスコアは295.27点。これは、羽生結弦(ANA)が15年11月のNHK杯で300点超え(322.40点)を果たすまで2年以上にわたり、世界記録として多くのスケーターが目標とするスコアになった。

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著者プロフィール

元毎日新聞記者、スポーツライター。自らのフィギュアスケート経験と審判資格をもとに、ルールや技術に正確な記事を執筆。日本オリンピック委員会広報部ライターとして、バンクーバー五輪を取材した。「Number」、「AERA」、「World Figure Skating」などに寄稿。最新著書は、“絶対王者”羽生結弦が7年にわたって築き上げてきた究極のメソッドと試行錯誤のプロセスが綴られた『羽生結弦 王者のメソッド』(文藝春秋)。

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