唯一無二だった“美しき”スケーター パトリック・チャン引退に感じる寂しさ

野口美恵

羽生に大きな影響を与えたチャンの滑り

羽生結弦(左)は、チャンを追うことで成長を遂げてきた。その影響力は計り知れない 【写真:ロイター/アフロ】

 チャンは自身の演技だけでなく、羽生に最も影響を与えることでスケート界の発展に貢献した人物でもある。羽生はシニアに上がった時から、「チャンが今の世界一の選手。だったらチャンを抜かせば世界一になれるということ」と言って、その演技に注目してきた。

 チャンと羽生が初めて同じ試合で滑ったのは、10年11月のロシア杯。羽生は公式練習でチャンの滑りを見て「こんなにエッジを倒しているなんて知らなかった。僕があんなに倒して滑ったら転んじゃう」といい、目からうろこが落ちたという。自分の練習をそっちのけでチャンの後を追っかけて滑り、その滑りを体得しようとした。

 その後も羽生は、チャンだけを見つめてソチ五輪までの4年間を過ごす。ソチ五輪シーズンには、GPシリーズ2戦とGPファイナルまでの計3戦とも2人は同じ試合で対決することになった。初戦のスケートカナダ、フランス杯と、チャンは羽生に大差を付けて優勝。羽生はチャンの滑りを徹底的にチェックし、記者会見でチャンが自身の滑りについて話すコメントを一言一句逃さずに聞きながら秘密を探り、そしてGPファイナルでは羽生が初めてチャンを抑えて優勝した。

 チャン自身は、3年間の世界王者として五輪優勝を期待されるプレッシャーもあり、このGPファイナル以降、力を発揮できない試合が続いてしまった。しかし羽生をここまで強くしたのは、他ならぬチャンだった。

今後はスケート学校のコーチに

今後は指導者の道に進む。チャンの愛弟子たちが新たなスケートの時代を築く日が訪れるかもしれない 【写真:西村尚己/アフロスポーツ】

 チャンは今後、バンクーバーに創設される「パトリックチャン・エリート・スケーティングスクール」のヘッドコーチとして、指導者の道が約束されている。カナダでは、トロントに多くの名リンクが集中しており、西海岸が手薄になっているのが現状。カナダの連盟としては、新たなスケートの聖地としてバンクーバーを盛り上げていきたい考えで、その先駆者となるのが、チャンなのだ。

 チャンならば、基礎のスケーティング力やジャンプの技術など、あらゆる面で“お手本”となる力を持っている。また現役時代にメンタルコントロールに苦しめられたぶん、選手の気持ちに寄り添うコーチになることができるだろう。

 ブライアン・オーサーは14年ソチ五輪で、愛弟子の羽生が優勝、同じカナダ人のチャンが銀メダルとなったとき、廊下で出くわしたチャンを無言で抱きしめたという。オーサーも、2度の五輪に出場し、金メダルを期待されての銀メダル。チャンの気持ちを誰よりも理解できる人物だった。

 オーサーは言う。

「チャンの持つスケート能力は、本当に素晴らしいもの。誰もがその秘密を知って、まねをしたいと思う。しかしあのスケートを身につけるには時間がかかる。子どもの頃からの訓練のたまものだ。コーチになって、小さな子どものうちから生徒を指導していけば、チャンのような滑りをする選手を育てることができるだろう」

 チャンの愛弟子たちが、素晴らしいスケートで新たなスケートの時代を築く日も、近いかもしれない。

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著者プロフィール

元毎日新聞記者、スポーツライター。自らのフィギュアスケート経験と審判資格をもとに、ルールや技術に正確な記事を執筆。日本オリンピック委員会広報部ライターとして、バンクーバー五輪を取材した。「Number」、「AERA」、「World Figure Skating」などに寄稿。最新著書は、“絶対王者”羽生結弦が7年にわたって築き上げてきた究極のメソッドと試行錯誤のプロセスが綴られた『羽生結弦 王者のメソッド』(文藝春秋)。

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