「今年はもう岡田メソッドはやりません」 吉武博文が今治で描くビジョン<後編>

宇都宮徹壱

15年の地域決勝での吉武メソッド事業部長。当時から今治は「集団指導体制」だった 【宇都宮徹壱】

 今季でFC今治のトップチームを率いて3シーズン目となる、吉武博文監督へのインタビュー。前編では、今治にやって来るまでの経緯について語っていただいた。後編では、今治での仕事がスタートした15年から現在までを振り返っていただく。

 15年の今治を率いていたのは木村孝洋監督だったが、メソッド事業部長の吉武氏、オプティマイゼーション事業本部長の高司裕也氏、そして状況に応じて岡田武史オーナーも助言するという「集団指導体制」であった。結果として15年は、四国リーグで優勝したものの、地域決勝(現・全国地域サッカーチャンピオンズリーグ=地域CL)は1次ラウンドで敗退してしまう。

 翌16年は吉武氏が監督に就任。岡田オーナーがCMO(チーフ・メソッド・オフィサー)として、ベンチで吉武監督の隣に座る二人三脚体制となった。この年、今治は地域CLで見事に優勝して、ついにJFLに昇格。しかし翌17年シーズンの全国リーグでの戦いは一筋縄ではいかず、岡田オーナーもセカンドステージは夢スタ(ありがとうサービス.夢スタジアム)のオープンに向けて、オーナー業に専念せざるを得ない状況となった。

 今治での吉武監督の3年間を振り返ったとき、どうしても注視してしまうのが「岡田オーナーとの関係性」である。時にオーナーとして、時にCMOとして、時に指導者の先輩として、吉武監督は多大なる影響を岡田武史という人間から受けているはずである。後編では、過去3シーズンを振り返りながら、岡田メソッドの進捗、そして岡田オーナーとの関係性についても語っていただいた。(取材日:2018年1月29日)

岡田CMOとの二人三脚へ

16年からはトップチームの監督となり、ベンチには岡田CMOが隣に座っていた 【宇都宮徹壱】

 15年のFC今治は、四国リーグからJFLを目指すことになりました。僕はメソッド事業部長で、監督はキムさん(木村)。キムさんは、岡田さんがオーナーになる前からチームを率いていました。地域リーグのイメージですか? ありましたよ。僕自身、大分上野丘クラブ(高校のOBチーム)のプレーヤーとして30歳くらいまで九州リーグのチームと対戦していましたから。それから大分FC(のちの大分トリニータ)が地域決勝に出場した時(96年)も、自分はジュニアユースで教えていましたからね。ですから地域決勝が3日連続で行われるとか、全社(全国社会人サッカー選手権大会)が5日間ぶっ通しとか、自分なりに知ってはいました。

 愛媛で行われた地域決勝の1次ラウンドは、1勝1分け(PK勝ち)1敗で、残念ながら決勝ラウンドに進めませんでした。ただ、これは「たられば」になるんですけれど、同じ戦力でもう一度やれば(JFLには)上がっていたと思います。(2試合目で大幅にメンバーを代えて敗れたが)、3試合目はPKにならず、1−0で勝ち切っていれば決勝ラウンドに行けたんです。われわれは(1次ラウンド)3試合をトータルで考えていたし、どの選手が出てもそんなにパフォーマンスが変わらないと思っていました。ただ、小野田(将人)と長尾(善公)の不在は大きかった。特に長尾が、初戦で負傷してしまったのは痛かったですね。彼らがいれば、楽に勝てたと思います。

 あの年、監督はキムさんだったけれど、実質的には集団指導体制でした。とは言っても最終決定は監督のキムさんです。僕と高司さんもベンチにいて、岡田さんも現場を気にしてくれて。最初、このクラブをやるというときに、「メソッドを作りながらトップチームの監督もやる」というイメージを岡田さんは描いていたようです。ただ、われわれは後からやって来た人間で、もともと監督だったキムさんに降りてもらうのはよくないと僕は思っていました。ですからあの体制でうまくいっていたら、そのまま10年くらいはキムさんが監督でもまったく問題ないし、僕が監督になる必要もないと思っていました。それはオーナーである岡田さんが決めることで、結果としてああいった形になりましたが、キムさんはやりにくさを感じていたかもしれないですが……。

 2年目は、岡田さんから「お前がやれ」ということで、僕がキムさんに代わって監督になりました。その時、岡田さんに「一緒にベンチに入りましょうよ」って提案したのは僕です。それでCMOという新たな役職を作って、2年目は僕の隣に座ってもらいました。僕自身、岡田さんが隣に座ることでやりにくさは感じません。むしろ、すごく勉強になると思っています。試合の見え方もそうだし、アイデアもいっぱいある。もちろん自分にもアイデアはあるけれど、ひとつではなくいっぱいあったほうがいい。それで迷うことはないです。「山を登る」という目的が一緒なら、いろいろなコースがあっていい。富士山を登るはずが、エベレストになったら困りますけれど(笑)。

16年の地域CL突破は「必然だったと思っています」

 16年の地域CLは、1次ラウンドで2位に終わりましたが、1戦目と2戦目を大差で勝ったのでワイルドカードで決勝ラウンドに進みました。3戦目の(ヴィアティン)三重戦は、確かに0−3で敗れたんですが、ゲーム内容そのものは悪くはなかった。もちろん、10回やって全部が同じ結果だったら悪いんだけれど、自分としては7〜8回は勝てた試合だったと思っています。むしろ僕が三重の立場だったら、「今回は勝ったけれど、次に対戦したらやられるな」と考えたと思いますよ。幸い、三重とは決勝ラウンドでまた対戦できる。決勝ラウンドまでの間は、選手が自信を失わないことだけを考えていました。

(決勝ラウンドの鈴鹿アンリミテッド戦と三重戦はマンツーマンマークを採用したが)あれは僕と岡田さんのアイデアが一致してやってみたんです。全社で鈴鹿の試合を見て、チームとしてはこっちに分があるけれど、2人ほどいい選手がいる。ここにマンツーマンでマークを付けると面白いんじゃないかって岡田さんに話したら、岡田さんも同じ考えで「お前、本当にやるの? まあ、いいんじゃない」って言ってくれました。三重戦で、(長島)滉大を左に持っていって相手の右サイドを(警告2枚で)退場させたのも、みんなのアイデアから決めたことです。ただ、あそこで抜てきされて、しっかり役割を果たした滉大がすごいわけで、まずは彼を褒めるべきだと思いますね。

(地域CLを突破できたのは)采配も大事だけれど、選手たちの1年間の頑張りですよね。そこに魔法はない。(勝利を)必然にしたのは、選手たちの力ですよ。個人の能力とパフォーマンスということを考えたら、1年目(15年)の選手たちはすごく頑張ったなと思っています。いきなり外からわけの分からない人たちが来て、それまで「離れろ」というところで「近づけ」と言われたり、「体を張れ」というところで「ぶつかるな」と言われたり。頭が混乱しますよね。そんな中でも、あれだけのパフォーマンスを発揮できたわけですから。2年目はそこに成熟したものが加わったわけですけれど、1年目の頑張りと伸びしろがあったからこそ、2年目の結果につながったと思っています。

 ですからあの結果は、僕は必然だったと思っています。前の年だって突破できると思っていたし、選手の質も上がっているわけですから当然ですよね。ただ、10回やって10回勝つというのは、サッカーではあり得ない。FCバルセロナだって、2回くらいは負けることがある。だから確率的に10回やれば、8〜9回は上がれるでしょう、という話。五分五分というのはしたくない。それより高い確率まで持っていこうということは、常に考えていました。それにやるべきことはすべてやっていましたから、僕自身はプレッシャーをあまり感じていませんでした。緊張感やドキドキ感はありましたよ。でもそれは、サッカーの監督をやる上での醍醐味(だいごみ)ですから、嫌いではないですね(笑)。

1/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント