2008年 大分の「夢の後始末」<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
当時の大分に必要だった「強さと夢」
当時大分に所属していた清武。地方都市の大分にとっては「強さと夢」が不可欠という信念を溝畑は持っていた 【写真:アフロスポーツ】
なるほど、言いたいことはよく分かる。とはいえ、当時の溝畑が「堅実な経営に徹する」という選択肢を採らなかったのは、単に周囲の状況に流されただけではなかったはず。というのも、彼には絶対に譲れない「プロサッカークラブのイメージ」というものが明確にあったからだ。加えて地方都市のハンディゆえに、「強さと夢」が不可欠という信念があったことも見逃せない。それは、彼のこんな発言からも明らかだ。
「私が抱いているプロのイメージというのは、一流が持っている強さを子供たちに見せること。そして『頑張れば一流になれる』という夢を与えられること。チームに強さと夢があれば、大分のような地方都市であっても、選手もお金も集まってくる。清武(弘嗣)にしても(西川)周作にしても、W杯を身近で見て地元に勢いのあるクラブがあったから、あの年(09年)まで大分にいてくれたんだと思います。家長(昭博)がウチを選んでくれたのも、『地方のクラブだけど、頂点を目指しているから』と言っていました」
09年には14連敗という泥沼を経験、初タイトルをもたらしたシャムスカ監督は解任された 【(C)J.LEAGUE】
「まず、私がチーム設立から関わった14年間をトータルで見ていただきたい。ナビスコで優勝せずに、ほどほどの経営でJ1とJ2を行ったり来たりするようなチームであればよかったのか、それは皆さんが判断することだと思います。でも当時の私は、トリニータを日本一のクラブにすることが目標でしたし、地方の小さなクラブでも頑張れば世界を目指すことだってできる。そのことを皆さんに知ってほしくて、ブレずに逃げずに最後まで社長の仕事をしてきました」
一方で溝畑は「大分での18年間は、私にとって最も素晴らしい時間でした。お世話になった大分の皆さんには、心から感謝申し上げたいです」という謝辞を忘れない。その上で、さらに持論を続ける。
「それまでまったく縁のなかったサッカーに、私が関わるようになったのは、地方の活性化、さらにいえば地方が全国や世界を目指すモデルケースを作りたかったからです。地方が日本一を目指す、世界一を目指すということが、日本の活性化につながる。だから私は、リスクを承知でチャレンジする道を選んだ。その結果、ああいうことになったわけですけれど、それでも悔いはないです。周りの評価も気にしていません。気にしていたら、そんな仕事はできないですから」
<後編(2/28掲載予定)につづく。文中敬称略>