2007年 浦和レッズのACL制覇<後編>
シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

ピッチ上と裏方、それぞれの「未知との戦い」

浦和のACL優勝に大きく貢献した鈴木啓太。ACLでは「ホームとアウェーでの違い」に驚かされたと話す
浦和のACL優勝に大きく貢献した鈴木啓太。ACLでは「ホームとアウェーでの違い」に驚かされたと話す【宇都宮徹壱】

 かくして2007年シーズンがスタートする。浦和のJリーグ開幕戦は3月3日、ホームでの横浜FC戦。続いて7日にはホームでペルシク・ケディリ(インドネシア)とのAFCチャンピオンズリーグ(ACL)初戦があり、11日と17日のリーグ戦を挟んで21日にはアウェーでシドニーFC(オーストラリア)と戦った。4月に入るとリーグ戦とACLで7試合。中3日での連戦も珍しくないハードな日程となった。


「確かに連戦でしたけれど、元気だったし、楽しいなと思っていたくらいです(笑)。春先はキツイというよりも、試合を重ねることでコンディションがどんどん上がっていく感じでした。体力的にキツくなってくるのは、むしろ夏場以降でしたね」


 鈴木啓太は当時、プロになって7シーズン目の26歳。フットボーラーとしてまさに脂が乗りきった時期を過ごしていた。イビチャ・オシム率いる日本代表の常連として13試合に出場。浦和の不動のボランチとして、この年のJリーグに33試合、そしてACLでは12試合すべてに出場することとなる。


「ACLで驚いたのが、ホームとアウェーで違いがすごかったこと。埼スタ(埼玉スタジアム2002)で試合をしたときは、びっくりするくらい下手なチームでも、アウェーだとかなり苦戦しましたね。特に苦労したのがピッチコンディション。原っぱみたいな感じでボコボコでした。印象的だったのが、ペルシク・ケディリとのアウェー戦。そんなに大きな都市ではなかったし、スタジアムも小さかったんですけれど、スタンドはけっこうお客さんで埋まっていて、すごい熱気でしたね。インドネシアではサッカーが根付いていることを実感しました」

この年、鈴木啓太(中央)はACLの12試合すべてに出場した
この年、鈴木啓太(中央)はACLの12試合すべてに出場した【写真:中西祐介/アフロスポーツ】

 アジアでの戦いは、裏方のスタッフにとっても「未知との戦い」だった。オジェックの通訳を務めていた山内直は「最も苦労したのがスカウティングの翻訳でした」と語る。


「スカウティング担当の大槻(毅)さんが、まず対戦相手の分析をしてから、ビデオの編集をしたりレポートを作ったりするんですね。それを僕がドイツ語に翻訳しないといけないわけです。中3日というスケジュールでしたから、大げさでなく地獄のような大変さでした(苦笑)。大槻さんとは夜中の2時や3時に、電話で『これってどういう意味?』みたいな感じでやりとりして、翻訳したものを監督に渡すという日々が続きました。当時、対戦相手の情報はほとんどなかったですから、それは大変でしたよ」


 そんな裏方の苦労を、当時選手だった鈴木はほとんど知らなかったという。むしろ記憶に残っているのは、シェフとしてアウェーに帯同していた西芳照による料理。「サムライブルーの料理人」として知られる西は、浦和の選手にとっても不可欠な存在であった。


「西さんの存在は大きかったと思います。作っていただく料理もそうですが、僕らは西さんがいることで安心して試合に集中できました。もちろん、選手によって味の好みはそれぞれだったと思います。それでも『西さんのおにぎりが食べられる』とか、『西さんのうどんが食べられる』とか、そういう安心感は間違いなくありましたね」

個性派集団のまとめ役と「見えないサポート」

当時はJリーグの「見えないサポート」があったのではないか、と通訳の山内は語る
当時はJリーグの「見えないサポート」があったのではないか、と通訳の山内は語る【宇都宮徹壱】

 グループEを首位通過した浦和は、9月19日から始まる決勝トーナメントに進出。対戦相手は、準々決勝が全北現代モータース、準決勝が城南一和天馬(いずれも韓国)。そして決勝の相手は、準々決勝で川崎をPK戦で下しているセパハン(イラン)だった。当初はアジアの戦いを「イメージできなかった」鈴木も、グループリーグの終盤からは、その厳しさを強く感じるようになったという。


「(グループリーグ最後の)ホームでのシドニーFC戦は、0−0のドローだったんですけれど、苦しみながら勝ち点1を確保して何とか1位抜け。この頃にはACLという大会の厳しさが体感的に理解できるようになっていました。そのあと、準々決勝と準決勝で韓国のチームと対戦するんですが、城南一和にPK戦で勝利して、ようやく『優勝できるかもしれない』と思うことができました」


 そこで気になるのが、当時のチームの雰囲気。監督のオジェックは「勝っているチームは触らない」との信念から、2チーム分の戦力があるにもかかわらず、ほとんどメンバー固定で戦っていた。07年当時の浦和といえば、キャプテンの山田暢久をはじめ、田中マルクス闘莉王、永井雄一郎、そして小野伸二と、まさに個性の強い選手がそろっていた。スタメンとサブの明確な序列がある中、誰がチームをまとめていたのか。鈴木の答えは明快だった。


「岡野(雅行)さんと伸二さんでしたね。スタメンの選手は、なかなか出られない選手のことまで気が回らなくて、空気の悪さを感じることもありました。そこで岡野さんなり伸二さんなりが『みんなで頑張ろう!』という雰囲気を作ってくれていました。特に岡野さんは、ベンチスタートが多かったので、いろいろ思うところはあったはずです。でも、だからこそ若い選手も『試合に出られなくても頑張ろう』と思ったんじゃないでしょうか」

スタメンとサブの明確な序列がある中、岡野らがチームをまとめていた
スタメンとサブの明確な序列がある中、岡野らがチームをまとめていた【写真:築田純/アフロスポーツ】

 もうひとつ、興味深い証言をしてくれたのが山内。「実はJリーグの見えないサポートがあったのではないか」と、試合日程がびっしり書き込まれた手帳を開きながら主張する。


「当時のスケジュールを見ると、いろいろ考慮してくれたんじゃないかと思うんです。だって、僕らが海外遠征する前の試合は、ホームや関東での試合が多かったんですよね。そこに、少なからずの配慮が感じられます(笑)。セパハンとの決勝ですか? 第1戦の前、ドバイでの合宿をすごくいい雰囲気で終えることができました。ですから、負ける気がしなかったですね」


 その決勝は、アウェーで1−1、ホームで2−0。終わってみれば、浦和の完勝であった。埼玉スタジアムでの優勝セレモニーの中、鈴木は「ああ、アジアのチャンピオンになったんだな」という実感はあったものの、それ以上の感慨は湧いてこなかったという。


「自分が浦和レッズの一員になってから、リーグ優勝するまでに6年かかっているんですよ。でもアジアでは、初めてのチャレンジで優勝できちゃったわけじゃないですか(笑)。生意気かもしれないけれど、あの時は『次は世界だよね』という感じでしたね」

宇都宮徹壱
宇都宮徹壱

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著はスポーツナビでの連載をまとめた『J2&J3 フットボール漫遊記』(東邦出版)

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