2007年 浦和レッズのACL制覇<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
重荷となったACL優勝と「世界3位」の称号
10年ぶりのアジア制覇を果たした浦和。そんな今だからこそ、07年の優勝は再評価されてしかるべきだろう 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】
「当然、両方獲りにいこうと思って(ACL優勝後も)100パーセントで臨んでいるつもりでした。でも精神的にも肉体的にもすり減っていたのは事実だし、認めたくないけれど僕自身も体が重かった。ただ、バルサ(FCバルセロナ)でもレアル(・マドリー)でも、チャンピオンズリーグとリーガで優勝するのは大変ですよね。それでも、スペインでそれができるのは、その2チームくらいしかない。日本の場合、当時のウチを含めて、そこまで抜けているチームはまだない、ということだと思います」
アジアと国内の2冠達成の難しさは、監督であるオジェック自身もシーズン前から強く自覚するところであった。実際、ACLチャンピオンとなったJクラブが最後までリーグ優勝争いに加わったのは、現在のところ07年の浦和のみである。そして、アジア王者と「世界3位」の称号は、その後も浦和に重くのしかかることになった。翌08年、監督のオジェックはリーグ戦開幕2連敗で早々に解任。この衝撃的な人事は、結果として長い低迷期への入り口となってしまう。以降はクラブの強化方針が定まらず、再び国内タイトルを手にしたのは9年後(16年のルヴァンカップ)、そして2度目のアジアチャンピオンは10年後まで待たなければならなかった。
07年の栄に浴した人々もまた、その後の人生は決して平坦なものではなかった。通訳の山内は、新シーズン開幕前に脳内出血を患い、懸命のリハビリで杖をつきながら歩けるようになったものの、現場から離れることを余儀なくされた。鈴木は、扁桃炎や不整脈などのアクシデントにたびたび見舞われ、15年にスパイクを脱ぐ決断を下す。34歳での現役引退は、決して早すぎるものではない。とはいえ07年の充実ぶりを思い起こすと、いささかの寂しさを禁じ得ないのも事実。「いずれはビジネスで成功して、浦和の社長になるのが夢」と語る当人は、自身のキャリアについてこう語る。
「06年から07年にかけて、チームでも代表でもハードスケジュールをこなしていたけれど、『やっぱり人間、休まないとダメだな』というのは、この年に感じたことですね(苦笑)。34歳まで(現役を)続けられたことについては、自分なりに納得はしています。ただ、あの時に自分のコンディショニング管理をきちんとやっておけば、もう少しいい時期が長く続いたかもしれない……。そう考えることはありますね」
一方、「ACLの優勝によって、われわれが目指すのは、アジア、さらには世界なんだよ、ということを示すことができました」と言い切るのは山内である。そしてきれいに色分けされた当時の手帳に目を落としながら「あの年は激務でしたけれど、楽しかったですね」と、静かにほほえんだ。浦和にとっての07年は、確かにほろ苦い記憶とセットになっているのかもしれない。それでもこの快挙は、他のJクラブにもポジティブな影響を与え、当事者たちにとっては大切な記憶となっている。10年ぶりのアジア制覇を果たした今だからこそ、07年の浦和のACL優勝はもっと再評価されてしかるべきだろう。
<この稿、了。文中敬称略>