1999年 J2元年の劇的な最終節<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

「J2オリジナル10」がJ1を制したことの意義

17シーズンのJ1を制した川崎。「J2オリジナル10が、初めてJ1を制した」歴史的な瞬間だった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

「2017明治安田生命J1リーグ、優勝の栄冠を勝ち取りました、川崎フロンターレ!」

 12月5日に横浜アリーナで開催された今年のJリーグアウォーズ。きらびやかなスポットライトを浴びながら、川崎の選手全員が壇上に登場すると、会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。クラブ設立から21年目での初の快挙、そしてこれまでのシルバーコレクターぶりを考えれば、今年の川崎のJ1優勝は(最終節が劇的だったことも加えて)極めて印象深いものとなった。もっとも今回の川崎の快挙については、つい見逃されがちな点がある。それは「J2オリジナル10が、初めてJ1を制した」という事実である。

 1993年に開幕したJリーグは、当初の6シーズンは1リーグ戦で行われ、その間にチーム数は10チームから18チームに増加。そのトップリーグの下に置かれていたのが、現在では「旧JFL」と呼ばれることの多いジャパンフットボールリーグである。旧JFLはJリーグに1年先立つ92年にスタートし、最初の2シーズンは1部・2部制でそれぞれ10チームが所属。94年からは16チームによる1リーグ制となり、上(Jリーグ)を目指すチームと目指さない企業チームが混在するリーグとして98年まで存続した。

 そしてJリーグが進めていた「アクション・プラン」の総仕上げとして、新たにJ2リーグが創設されたのが99年。旧JFLを発展的解消し、Jリーグ準加盟となっていた9チームに、前年に開催されたJ1参入決定戦でJ1入りを果たせなかったチームを加えた10チームが、J2における「オリジナル10」となった(コンサドーレ札幌、ベガルタ仙台、モンテディオ山形、大宮アルディージャ、FC東京、川崎フロンターレ、ヴァンフォーレ甲府、アルビレックス新潟、サガン鳥栖、そして大分トリニータ)。このオリジナル10のひとつ、川崎が今回初めてJ1リーグを制したわけである。

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第11回の今回は、1999年(平成11年)をピックアップする。ミレニアム(千年紀)が切り替わるこの年、JリーグはJ1とJ2による2部制を導入。J1が16チーム、J2が10チームとなり、Jクラブ数は前年の18から一気に26にまで増えた。単なるビッグバンではない。この改革によりJリーグは、MLS(メジャーリーグサッカー)のように1リーグでエクスパンション(チーム数増加)を進めるのではなく、昇降格がある欧州スタンダードを明確に志向することになる。その後のJリーグの歩みを考える上で、99年のJ2創設は大きなターニングポイントとなった。

「社業に専念」を経てプロの指導者へ

黎明期のFC東京を率いた大熊(写真)に99年に開幕したJ2を振り返ってもらった 【宇都宮徹壱】

 もっとも99年のJ2開幕については、当該クラブのサポーターでもない限り、ほとんど記憶にないのが実情だろう。93年のJリーグ開幕が「国民的な記憶」となっていることと比べると、その差は歴然としている。だが、J2開幕時の各クラブ監督の顔ぶれを見ると、これが意外と豪華なのだ。札幌は、日本代表を初のワールドカップ(W杯)出場に導いた岡田武史。大宮は、のちに韓国やオーストラリアで代表監督を務めるピム・ファーベーク。他にも植木繁晴(山形)、永井良和(新潟)、などなど。

 そしてFC東京の大熊清と大分の石崎信弘もまた、[J2オリジナル10]の指揮官として名を連ねていた。大熊は黎明(れいめい)期のFC東京を象徴する指揮官として、そして石崎は7つのJクラブを渡り歩いた「昇格請負人」として知られる。99年当時、大熊は35歳、石崎は41歳。年齢は石崎が上だが、両者はC級からS級まで、ずっとライセンス講習で同期であった。そして彼らはこのシーズン、J1昇格を懸けた劇的な最終節を迎えることとなる。今回は大熊と石崎、それぞれの視点から、99年に開幕したJ2を振り返ることにしたい。

「僕が東京ガスで現役を終えたのは92年。まだ28歳の時でしたね。関東リーグから始まって、JSL(日本サッカーリーグ)2部、旧JFLまでプレーしました。引退後、母校の中央大で指導する機会があり、それから94年に東京ガスのコーチ、95年に監督になったのですが、その間に指導者講習を受けることができました。現役を辞めるときは、会社もサッカー部もちょうど過渡期で社業に専念することになりましたが、会社の理解もあって早めに指導者の資格を取れたのはありがたかったです」

 現在、セレッソ大阪のチーム統括部フットボールオペレーショングループ部長を務める大熊は、指導者となった経緯についてこう振り返る。ちょうどJリーグが始まる頃、現役を引退している指導者たちに話を聞くと、必ずと言ってよいほど出てくるのが「社業に専念」というフレーズ。国内リーグはプロ化したものの、まだまだ企業スポーツ文化が色濃く残っていた時代であった。現在、九州リーグのテゲバジャーロ宮崎(18年からJFL)で指揮を執る石崎もまた、「社業に専念」を経験している1人である。

「東芝時代、JSLで3年プレーしました。11年かけてせっかく1部に上がったのに、会社の方針でJリーグには行かないと。それで94年、選手を引退して社業に専念しました。1年だけでしたが、浜松町の本社で朝から晩まで液晶の生産管理の仕事をしていましたね。ちょうどカラーの液晶が出始めた頃です。そうしたらNEC山形(当時)からコーチの話が来たんですよ。こっちはJリーグのきらびやかな様子を見ていて、『サッカーで生きていくのもいいなあ』と思っていたから、東芝をすっぱり辞めて山形に向かいました」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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