連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
沖縄から親子2代で“世界”と戦う レスリング屋比久翔平が目指す五輪の夢
全日本レスリング選手権で3連覇、沖縄から五輪を目指す屋比久翔平 【写真:長田洋平/アフロスポーツ】
“沖縄愛”に満ちた国内負けなしの実力者
「好きなものを腹いっぱい食べています!」
満面の笑みで語るその姿に、厳しい減量生活からの束の間の開放を感じた。何を食べているのかと聞くと……
「沖縄そばにタコライス、あとブルーシールにも行きました!」
出てくるのは沖縄の食べ物ばかり。故郷を離れても心は“沖縄愛”に満ちている。
屋比久は、沖縄・浦添工高時代からグレコローマンで台頭し、JOC杯は2011〜15年にカデット〜ジュニアのグレコローマンで5連覇。日本体育大に進学し、大学でも負けなしの実力をつけると、大学3年時の15年に全日本選手権男子グレコローマン75キロ級で初優勝。16年のリオデジャネイロ五輪の出場は逃したが、その悔しさをバネに、その後国内負けなしを続け、17年の全日本は東京五輪の階級となる77キロ級を制し、大会3連覇を達成した。
父の影響で生まれて間もなくレスリングに触れる
沖縄・北部農林高レスリング部監督である父・保さん(左)の影響で生まれて間もなくレスリングと触れ合う 【写真提供:屋比久保】
保さんは、沖縄レスリング界で最も五輪に近づいた人物だ。1989、91年の全日本王者で、92年バルセロナ五輪代表候補にまでなったが、あと一歩のところで出場を逃した。
その後、沖縄レスリング界の強化に尽力した保さんは12年に浦添工高の監督として、県勢初の全国高校選抜大会団体優勝を成し遂げた。その当時の主力メンバーの1人が屋比久だ。
「保育園のときからレスリングマットで遊んでいた記憶がある」と語る屋比久だが、レスリングとの関わりはもっと早い。屋比久家には、まだ赤ちゃんの屋比久が「ジャパン」のレスリングウエアを着る、愛くるしい100日写真が残っている。
まさに生まれた頃から父の果たせなかった夢を追う屋比久は、レスリングをやめたいと思ったことは一度もないという。ただ中学時代は現在の強さとかけ離れたつらい時期を送った。
小学校まで県大会で負けなしだった屋比久だが、中学に入ると中学2年の半ばまで県大会でさえ1勝もできない日々が続いた。
元来負けず嫌いの屋比久は、いつも泣きながら試合後も練習を続けた。保さんも泣きながらぶつかってくる息子の練習を受け止め続けた。そうして中学2年の最後の県大会で優勝し、中学3年の全国大会で3位入賞を果たした。
保さんは県勢としては自身以来の全日本王者となった息子の成長を感慨深げに語る。
「決勝で勝ったときはこんなに強くなったかと鳥肌が立ちました。力強さが感じられるし、技術面というよりも体ができてきたなと感じます」