晴雨兼用、世にアラジン 「競馬巴投げ!第156回」1万円馬券勝負

乗峯栄一

栗東トレセンの調教スタンドが新しくなったが……

 開場以来50年近く使われてきた栗東トレセンの調教スタンドが新しくなり、今月から使用開始となった。[番外写真1]がそれで、左奥の3階建ての古い小さい建物が、手前の4階建ての新しいビルと交替となる。

[番外写真1]今月から使用開始となった栗東の新調教スタンド(手前) 【写真:乗峯栄一】

 今週初めて新スタンドの中に入ったが、内容自体がそんなに変わった訳ではない。1階が騎手・厩舎スタッフの休憩室と食堂で、2階が調教師の調教観察ルーム、この部分は部屋が新しくなっただけで、構成は変わってない。

 変わったところといえば、今までワンフロアだった専門紙スタッフ席と新聞記者席が分かれたことだ。3階に新聞記者席[番外写真2]と調教見学ファンのための施設[番外写真3]が出来、4階に専門紙スタッフ席とインタビュー専用ルーム(写真左のドアから入る)[番外写真4]が出来た。

[番外写真2]新調教スタンドの新聞記者席 【写真:乗峯栄一】

[番外写真3]こちらは調教見学ファンのための施設 【写真:乗峯栄一】

[番外写真4]正面が専門紙スタッフ席で、左のドアから入るとインタビュー専用ルームだ 【写真:乗峯栄一】

 今までは記者・専門紙フロアの横の隙間に臨時のソファとJRAの背景屏風のようなものを置いてインタビューをやっていたから、これは進歩と言えるだろう。手狭になっていた新聞記者と専門紙スタッフを二つのフロアに分けて、広く使えるというのもいいことなんだと思う。

 ただ個人的には若干困っている。ぼくの場合、長年予想コラムを連載していたよしみで、スポニチから取材章を貸与してもらっている。しかし「記者か?」と言われると、記者ではない。

 週刊競馬ブックにもコラムを連載していて、これももう10年になるから、蛮勇をふるって「専門紙ルーム」の方にも行けないこともないが、「あんた、専門紙スタッフか?」と聞かれると、手を振りながらズルズル後ずさりするしかない。

 今までは、この新聞と専門紙の人間がワンフロアにいたから、そこに置いてある古びたソファなんかに座っていても、「別に記者でも専門紙スタッフでもないけど、オレもそれ相応の者よ」という顔をしていられた。

 今週は初めて新スタンドに入ったが、「記者席」と書いてある3階と4階のどちらのドアも開ける勇気が出なかった。これでも、もう25年、トレセンに通っているのだが、いまだにコメツキバッタから抜けられない。トレセンの主のような人間がもしビール瓶持って追いかけてきたら、きっと逃げまどうだけだ。警察に被害届け出すなど、とても出来ない。われながら情けない。

 どうして「フリーライター・ルーム」を作ってくれなかったんだろうか。

トレセン通い25年、色んな出来事に遭遇する

 しかし何十人かの古い知り合いはいる。これだけは自信を持って言える。でも古い調教スタンドがなくなるように、そのうち半分ぐらいの人は、定年や自己理由でトレセンを去っているし、あるいは亡くなった人もいる。旧スタンドから新スタンドに移るというのは、そういう寂しさを感じさせるところもある。

[番外写真5]鮫島調教師とモズカッチャン 【写真:乗峯栄一】

 鮫島一歩調教師も古い知り合いの一人だ。女王杯モズカッチャンでの初GI、ほんとによかった。祝辞を言いに行ってきた[番外写真5]。

 トレセンに行き始めた頃、同じ年から大阪スポニチにコラムを書き始めた小林常浩(当時)調教助手がいて[番外写真6]、この男が生来の酒好き、かつ口は悪かったが、面倒見がすこぶる良く、37歳トレセン中途採用でオドオドしている乗峯を色々引き回してくれた。

[番外写真6]オドオドしている乗峯を色々引き回してくれた小林常浩元調教助手 【写真:乗峯栄一】

 当初は浜田光正厩舎にいて、ちょうどビワハヤヒデが出た頃であり、浜田調教師も親切にしてくれるし、「浜田厩舎の小林」と知り合いというのは心強いなあと思っていたが、95年だったか、突然「オラよお、厩舎変わったよ」などと言う。

 それまで終身雇用のように、厩舎スタッフというのは厩舎は変わらないものなんだろうと思っていた。もちろん生涯同一厩舎で働くという人も中にはいるが、まあ、普通はいくつかの厩舎を経験するもののようだ。

 しかしその中でも小林常浩の場合は、特に変転が激しい。浜田厩舎でもすでに4つ目の厩舎だと、あとで知る。

「今度はよ、増本厩舎ってとこに行くんだ。遊びに来いよ。ま、オレは増本じゃ一年生だから、そんな大きな顔はできないんだけどよ。飯田、鮫島両人という立派な先輩もいることだしよ」などと言う。

 増本厩舎の大仲(スタッフ休憩室)に入っていくと、調教を終えた“一年生”はふんぞり返って燗酒を飲んでいた。「あんたもビール飲むだろ?」と冷蔵庫から缶ビールを出されて、どうしたものかと困惑しているところに、飯田・鮫島両人が調教から戻ってくる。「このお二人が、敬愛する飯田・鮫島両先輩だ。何しろ、オレは一年生だからよ。両先輩の前では小さくなっとくしかねえんだ」と“一年生”は燗酒片手に座ったまま言う。

 そのとき初めて鮫島さんと口をきいたが、鮫島さんの第一声「小林くんのお守り、大変でしょう?」はいまだに忘れられない。飯田雄三さんもそうだが、ほんとに気遣いの出来る穏やかな人たちだ。

 鮫島さん、飯田さんは北海道酪農学園大学・馬術部の同級生で、卒業後も同じ増本厩舎に入り、どこかの“一年生”と違って、二人とも20年あまり増本厩舎一筋で来て、2000年だったか、ほぼ時期を同じくして調教師試験に合格して、厩舎開業となる。

 一方、小林常浩は増本厩舎を2年ほどで辞めて、安田伊佐夫厩舎に移り、「大仲で自由に酒は飲めるし、こんないい厩舎はない」と言っていたのだが、やはり2000年ごろ、何が理由かよく分からないが、突然出奔する。

 ようやく探し出して「あんた、調教助手辞めて、これからどうするの?」と聞いたら「しょうがないから物書きでもする」とおっしゃる。これは多分に乗峯の影響があるようだ。あんな楽なものはないと勘違いしたようだ。「物書きがいかに苦しいものかを知ればいいんだ」と憤然としたが、その年、ぼくが一次選考も通らなかった「優駿エッセイ賞」を取ってしまう。「物書きってのはよ、外から見てると楽そうだけど、中に入ると、もっと楽だな」ともおっしゃっていた。くっそー。

 その小林常浩も、過飲から肝硬変を発症し、今年2月の寒い日、58歳の若さで死んでしまった。

 その同じ年に、鮫島調教師は念願のGIを手にする。飯田雄三調教師もいずれGIを取ることだろう[番外写真7・飯田調教師と重賞馬マイネルクロップ]。

[番外写真7]飯田雄調教師と2105年のマーチSを勝ったマイネルクロップ 【写真:乗峯栄一】

「記者室」に入る勇気もない、我が“おびえのトレセン訪問”だが、それでも25年通うと、色んな出来事に遭遇する。

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著者プロフィール

 1955年岡山県生まれ。文筆業。92年「奈良林さんのアドバイス」で「小説新潮」新人賞佳作受賞。98年「なにわ忠臣蔵伝説」で朝日新人文学賞受賞。92年より大阪スポニチで競馬コラム連載中で、そのせいで折あらば栗東トレセンに出向いている。著書に「なにわ忠臣蔵伝説」(朝日出版社)「いつかバラの花咲く馬券を」(アールズ出版)等。ブログ「乗峯栄一のトレセン・リポート」

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