ピオネロ(先駆者)アシヤもきっと応援 「競馬巴投げ!第150回」1万円馬券勝負
スペシャルウィーク・ラストランの「アシヤ練乳事件」
若手競馬講談師とスペシャル追い切りについてあれこれ言いながら、ウドン・カウンターに並んでいた。この講談師、陰では「あのオッサンが」などと言いまくっているが、面と向かうと「先生、先生」と腰が低くて、とても感じがよい。
「スペシャルウィークのスペシャル“ウィークポイント”見っけ、なーんちゃって、ウッハッハッハ」
「おや、これはまた、先生、見事なギャグ一本、大一番を前に今週も好調ですな、ハハハハ」
「ここは真面目に仕事する人の食堂や」
大声で有頂天になっている二人に、キクばあがいつも以上の低いうなり声を発する。
「あ、はあ、ごめんなさい」
二人は急激にシュンとなる。ぼくらは大声でしゃべる割に、周りからの非難に弱いという弱点がある。
「何するの?」
キクばあは「何するの」と言いながら、すでにジリジリと「天ぷらウドン」と「ゆで卵」と「コーヒー」の最高値三点セットの札を押し出している。
「ええっとね、天ぷらウドンとゆで卵と、あ、それにコーヒーも飲みたくなってきたな、不思議だなあ」
「一人八五〇円」
キクばあは相変わらず無表情に野太い声で値段を告げる。
「そっちのおネエさんは?」
思う壺にはまった二人は既にキクばあの対象ではない。キクばあの視線は既にぼくらの後ろに向いている。振り向いてその女性を見ると、「あ、時々テレビで見る人や。たしかアシヤとかいう人や。キレイな人や。でもやるときゃやりそうやな。ハイヒールで踏めって、あんた、いい度胸してるわね、ホレとか、うん、それぐらいは言いそうや」などと瞬時に色々考える。
「何にするの?」
キクばあはこのアシヤさんに対しても、十年一日のごとく最高値三点セットの札を押し出している。
「素ウドン」
アシヤさんはそう言って、大きな財布を開けて代金を出そうとしている。
「は?」
「素ウドンください」
アシヤさんは聞き返すキクばあに向かって、全く平気な顔で注文を繰り返す。あれだけテレビに出てる人が「素ウドン」て大きな声で……。アシヤという人は凄いと思った。
「あのね、おネエさん、ここ見たら分かるように、ウチは素ウドンはないの」
面食らったキクばあは手を伸ばしてカウンターの上に貼ってあるメニューを指し示す。自分の押し出した札を新規参入者に拒否されるというのはめったにないことなので、キクばあはかなり慌てている様子だ。
「わたし、テンプラもお揚げもダメなんです。たがら素ウドンにしてください」
アシヤさんは少しもひるまず自分の主張を続ける。
さすがのキクばあもアシヤさんの堂々とした態度に気圧されたか、注文を受け入れるしかない。
最大の神経戦はその直後に起きた。アシヤさんは出された素ウドンに、カウンターに置いてあるコーヒー用の練乳をドバドバかけた。
「あんた、それ、練乳やで」
営業中は片ヒジつきのポーズを決してくずさないキクばあも、さすがに驚いたか、思わず身を乗り出して叫ぶ。店中の人間がその声に一斉に振り向く。
アシヤさんはたぶんトウガラシ瓶と間違えて練乳缶をつかんだんだと思う。だふんそうだ。チョロッと入れた時点で、内心「あ、しまった」と思ったはずだ。しかしアシヤさんはやっぱり凄い。並の女じゃない。そんな内心の動揺はかけらも見せない。
大声を出すキクばあに対して「わたし、素ウドンに練乳かけて食べるのが好きなんです。ごめんなさい、変な趣味で」と言って、カウンターの正面のテーブルに座り、その練乳山盛り素ウドンを全部平らげてみせた。
カウンターから、口を半開きにして呆然とその様子を見ていたキクばあの姿が忘れられない。
これから栗東トレセンに行く機会のある人は、ぜひ調教スタンドのウドン屋に寄ってみて欲しい。片ヒジつきのキクばあが「ありがとう」と言うのを聞くことができるから。キクばあが客に感謝の念を表すようになっのたは、実にスペシャルウィーク・ラストランのときの「アシヤ練乳事件」があって以来のことである。
そのアシヤさんもヨーロッパに旅立って、既に5年になる。たまに帰国したときに会うことがあるが、とても元気で、いまも横柄なヨーロッパ人がいたら改革につとめているそうだ。