岡田メソッドのキーマン、吉武博文の挑戦 日本らしいサッカーの一貫指導を今治で

川端暁彦

FC今治のメソッド事業本部長に就任した吉武博文。U−17W杯に2度出場した男は、今治で何をなそうとしているのか 【スポーツナビ】

 2011年のU−17ワールドカップ(W杯)で、U−17日本代表が18年ぶりのベスト8進出を果たした。チームのサッカーはユニークなもので、現在のA代表メンバーに名を連ねるDF植田直通(現・鹿島アントラーズ)、岩波拓也(現・ヴィッセル神戸)ら個性豊かな選手の存在も際立っていた。その2年後、再びU−17W杯に臨んだ日本代表はより尖鋭化された“ゼロトップ”サッカーによって各国代表を相手にゲームを支配してみせた(結果はベスト16)。そのチームの監督を務めていたのが今年からFC今治のメソッド事業本部長に就任した吉武博文である。

「ストライカーがいなくても、突出した選手がいなくても、いいサッカーはできる」。そう断じる異色の指導者は、なにゆえに今治の地へと赴いたのか。そして何をなそうとしているのか。愛媛県今治市にて、本人を直撃した。

10年ぐらいは「恩返し」という気持ちだけ

――まずは吉武さんが今年から今治に来ることになった経緯を改めて教えていただけますか?

 それはもう、岡田(武史)さんから「一緒にやらないか?」という話があったからに尽きますね。年代別日本代表の活動をやってきて、いろいろなクラブを見る機会に恵まれたわけですが、サッカーを知っている方が全責任を負うようなクラブの方が望ましいのではないか、これから世界で戦っていくために大事なのではないかとも考えていました。「日本でそれができるのは中田英寿さんか岡田武史さんしかいないんじゃないか」。そんなことを友人たちには話していたんです。でもまさか、そのうちの一人が本当にクラブのオーナーになるなんてことは、自分で言いながら「まぁ、たぶんないよな」と思っていたんです(笑)。

――ところがどっこい、ですね。

 そう、本当に「始めるぞ!」と岡田さんがおっしゃった。しかも僕に対して「一緒にやろう」と。もう二つ返事でしたよ。メソッドという言い方をしていますが、一貫指導をしたかったんです。大きな集団だったらできないことがたくさんあったんですが、小さな集団から一から始めていくというのは楽しみだな、と。まあ、代表チームをやりながらいろいろと感じていたことを、クラブという中にどうやって移していくか。代表時代は言いたくても言えないこともいろいろとありましたし、メディアの皆さんには良いことも書いていただいたし、悪くも書いていただいた。そういう批判を受けることも当たり前の立場だと思っていました。でも今は岡田さんのYESかNOがすべてなので、決まったことはやり通せる。それはすごくやりがいのある仕事だな、と。

――クラブならではの仕事があるということですね。

 もう、ここからの10年ぐらいは「恩返し」という気持ちだけなんです。サッカーに携わって30年、40年近くやってきたわけで、あとは残りの10年ですから。

――岡田さんがA代表の監督だった時期に個人的なつながりができていたのですか?

 その時にちょうど自分も(U−15〜17の)代表監督をしていたので、各カテゴリーの代表監督が集まるような会議もありました。ただ、それも一回だけなんですよ。もちろん、岡田さんは有名な方ですから、私の方はよく見知ってはいましたよ。でも、2メートル以内の距離で話したのはその会議だけでしたね。

――それは少し意外です。では、岡田さんが吉武さんのチームを見て、純粋に「指導者としての吉武博文」を評価されたということでしょうか?

 いや、それはどうでしょう。僕には分かりません。岡田さんにも「本当に僕でいいんですか?」という話はしたのですが、岡田さんは「勘で決めた」と。今までの人生もいろいろなことを最後は直感で決めてきたという方ですから、ちょうどその時に僕が良いオーラを出していたのでしょうね(笑)。ラッキーだったと思っています。

選手と一緒に何かを作り上げていきたい

「選手と一緒に何かを作り上げていきたいし、最後までコーチでありたいとも思っている」と語る。現在はFC今治での仕事を楽しんでいる 【写真:FAR EAST PRESS/アフロ】

――それにしても、大きな決断ですよね。かつて教員を辞めた際も大きな決断だったと思いますが。

 いや、そうでもないですよ。S級ライセンスを取得した時期から教員は……、いや違うな。教員になったときから「いつか辞めたい」という思いはあったんだと思います。これは教員が嫌だから辞めるという意味ではないですよ。むしろ教員という仕事はすごく好きでした。逆にそれよりももっと強い刺激、やりがいのある物を見つけることができればという思いでした。教え子に「教員辞めるよ」と言ったときも、みんな「やっぱりね」という反応でしたからね。ましてや、自分の場合は協会と契約をするということだったので、自分はもう、死ぬまで協会でやるのだと思っていました。今回も「大きい決断か」と言えば、そうでもないと思います。

――そもそも、オファーを受けたのはいつ頃だったのですか?

 正式に契約したのは1月ですが、この(FC今治でやろうとしている)メソッドの話とか岡田さんと一緒に話したのはもっと前ですね。岡田さんもそのときは実際にクラブのオーナーになるとか、そういう考えはまったくなかった時期だと思います。スペイン人のジョアンさんというコーチの話を岡田さんが聞くという会がありまして、自分も同席させてほしいと言って、参加しました。いまFC今治にいる高司裕也(現・オプティマイゼーション事業本部長)が通訳だったんです。いまにして思えば、メソッドの話はそこが出発点でしたね。僕と高司さんは、『7.26事件』って呼んでいるんです(笑)。それが始まりでした。

――改めて年代別日本代表ではできなかったことをやりたい、と?

 いやいや、そんなことはないですよ。代表では自分のやりたいことを好き勝手にやれたと思っていますし、すごく自分としては、良い環境だったと思っています。あのやり方で世界と戦えるとも思っていました。できればずっと代表監督をやれたらとも思っていましたから。

――吉武さんは練習の現場に立たれているときが、最も生き生きとされている印象があります。

 それはそうですね。自分はもう「死ぬまでピッチにいたい!」というタイプですし、上に立つ人間でもない。何かを管理するというよりも、選手と一緒に何かを作り上げていきたいと思っていますし、最後までコーチでありたいとも思っていますから。今日の練習でも監督さんに言って試させてもらった内容もあったんです。そして選手から、「どう感じたか」「面白かったか、面白くないか」「分かりやすかったか、分かりにくかったか」と聞きながらやっていくんです。それはもうすごく楽しいところですね。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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