56年ぶりのメダルを狙うU-23日本代表・大岩剛監督が取材陣に見せた変化…“ハッピージョブ”として締めくくれるか

池田タツ

「ロス五輪の監督は大変だと思います(笑)」

パリ五輪で10番を担う斉藤光毅。クラブの事情でアジア最終予選に不参加だったエースが本大会に出場できるのは心強い 【写真:ムツ・カワモリ/アフロ】

 代表選手が合流時に代表チームのやり方を忘れていることは“代表あるある”と言っていいだろう。特に育成年代では顕著であり、U-23といえども大岩ジャパンも例外ではなかった。さらに大岩ジャパンの場合は、指揮官の望むメンバー全員をなかなか呼べなかったため、チームの意思統一の難易度が高かったことは想像に難くない。

「サムライブルー(日本代表)と我々とでは置かれている環境がまったく違います。サムライブルーの選手たちは能力が高く経験もあるので、パッと集まってもオプションを含めてやれる。自チームでも当然試合に出ているし、特に今はレベルの高いチームでやっている。

 我々は試合に出ていない選手も呼んで、ヨーロッパに遠征してすぐに試合に臨む。ポジションごとの役割、グループごとの役割などをシンプルにして、それぞれの目線に合う、分かりやすいものを落とし込んでいく。思い出す作業がなかなかできないから、オプションの数も減らさないといけない。例えばビルドアップは、3人、4人と連動してチーム全体でやらないといけないものだけど……。そういうことはものすごく考えながらやってきました」

 海外遠征では、現地に到着してわずか2日で試合に臨まないといけないこともあった。しかも海外組は別スケジュールで合流することもある。海外への長距離移動にまだ慣れていない選手も少なくなく、コンディションがまったくもってバラバラの状態で練習を行わなければならない。

 招集メンバー全員が揃ったのは試合前日ということすらあった。そんな状態でどれだけ選手たちの頭に戦術的要素が入るのか。コンディションを整えるだけで精一杯になってしまいそうなところを、大岩監督はなんとか要素を絞りながらチームビルディングしてきたのだ。

 一方、予算も日程も選手のクオリティもA代表とはまるで違うにもかかわらず、五輪代表監督には、A代表の監督に匹敵するほどのプレッシャーがのしかかっていた。1996年のアトランタ五輪以降、7大会連続出場の流れを断つわけにはいかない、というプレッシャーだ。

「鹿島アントラーズ(の監督)時代にはACL(AFCチャンピオンズリーグ)決勝を戦いましたが、あのときのプレッシャーとは全然違います」

 五輪代表監督が置かれている過酷な状況はあまり知られていないが、プレッシャーだけは大きくなってしまう。そんな状況で誰が五輪代表監督をやりたいというのか。筆者からはリスクだけが大きい仕事に見えてしまう。

「次のロス五輪の監督は本当に大変だと思います(笑)」

 大岩監督はそう笑ってみせた。自身が経験してきた苦労があまりに大きかったから、思わず出てしまったという笑みだった。

「森保さんの境地にまでは……」

メンバー発表直前の囲み取材に臨む大岩監督。この時点でオーバーエイジを招集できないことは分かっていたはずだが、実に落ち着いていた 【写真:池田タツ】

 7月3日に日本サッカー協会(JFA)は、パリ五輪に出場する18名のメンバーと4名のバックアップメンバーを発表した。なんとオーバーエイジは0人。招集できなかった海外組も多く、とりわけ精神的大黒柱の松木玖生(FC東京)が海外移籍の可能性があるという理由でメンバー外となった。

 最後の最後まで大岩監督は呼びたいメンバーを呼ぶことができなかった。それでも指揮官は会見で「招集することのできる、最高の18人プラス4人のバックアップメンバーを選んだつもりでいる」と堂々と胸を張った。筆者個人としてはJFAの交渉力にひと言言いたくなったが、大岩監督本人は会見で不満そうな顔は決して見せなかった。

 大岩監督はこの2年半、何が起きても常にそのときの条件の中で最大限にできることを選択し、泰然自若で目の前の試合に臨んできた。アジア最終予選突破後は、記者に見せる表情や言葉も明らかに変わった。憑き物がとれたように表情が明るくなり、話す内容は時おりジョークを織り交ぜつつ、よりオープンなものになっていった。

 今の大岩監督は、あらゆる困難を乗り越えた余裕を感じさせる。そんな指揮官に、パリ五輪本大会でも結果を出してくれることを期待せずにはいられない。

 6月下旬に行われた囲み取材の場で大岩監督に、五輪代表監督の仕事について訊いてみた。

 欧州で言われるように“クレイジージョブ”なのか、それともサムライブルーの森保一監督が言うように“ハッピージョブ”なのか。

「どちらの要素もあると思います。僕はまだ、森保さんの境地にまで達していません」

 パリ五輪でメダルを獲得し、“ハッピージョブ”として五輪代表監督という仕事を締めくくることができるか。さぁ、最後の難関を乗り越えよう!

(企画・編集/YOJI-GEN)

大岩剛(おおいわ・ごう)

1972年6月23日生まれ、静岡県清水市(現静岡市清水区)出身。清水商業高校から筑波大学を経て1995年に名古屋グランパスでプロ入り。当初は左サイドバックだったが、アーセン・ベンゲル監督によってセンターバックにコンバートされる。ジュビロ磐田時代の01年には2ステージ完全優勝に貢献。鹿島アントラーズでは07年~09年のJ1リーグ3連覇を経験した。11年限りで現役から退くと指導者に転身。18年には古巣の鹿島を率いてAFCチャンピオンズリーグを制覇した。現職には21年12月から就いている。

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著者プロフィール

株式会社スクワッド、株式会社フロムワンを経て2016年に独立する。スポーツの文字コンテンツの編集、ライティング、生放送番組のプロデュース、制作、司会などをこなし、撮影も行う。湘南ベルマーレの水谷尚人前社長との共著に『たのしめてるか。湘南ベルマーレ フロントの戦い』シリーズがある。

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