U-23代表・平河悠が海外移籍で町田最終戦 黒田監督、昌子主将の語る成長と実力
7月6日の名古屋戦を終えた平河悠はチームを離れ、移籍に備えて渡欧する 【(C)FCMZ】
町田は黒田剛監督就任後の1年半でJ2優勝、J1昇格、そして今季の首位争いと驚異的な成長を遂げている。そんなチーム「以上」の急成長を遂げた若者が、この名古屋戦でチームを離れることになった。U-23日本代表のサイドアタッカー、平河悠だ。
平河は山梨学院大3年だった2021年に、当時J2だった町田への加入を決めた。プロ初年度だった2023年、彼は町田のJ2制覇に大きく貢献。パリ五輪代表候補にも招集された。イングランド「ブリストル・シティFC」への移籍は最終段階で、クラブからは「海外クラブへの移籍を前提とした手続きと準備」と離脱の理由が発表されている。
2024年はJ1で町田の快進撃、AFC U23アジアカップ カタール2024(パリ五輪アジア最終予選)制覇に貢献。7月下旬に開幕するパリ五輪も、引き続きメンバーに入っている。大学3年夏までは全く無名で、代表や選抜とも無縁だった男が、J1とU-23代表の「顔」となり、世界へ飛び立とうとしている。
平河を「勝って送り出そう」
「名古屋さんは稲垣(祥)選手を平河にマンマークでつけて、スピードを出せないように対策してきていました。そこがロックされている分、その背後をしっかりと取ろう考えて、前半に少し修正をかけました。また荒木(駿太)を左、平河を右に置き、右からの侵入の方を多くしていこうということで、後半からはさらに圧力をかけました」
平河の移籍はチームを一つにする材料になっていた。
「平河は今日が最後ということで、色々な思いがあったはずです。これまで約2年半、町田の勝利に貢献してくれた選手ですから、今日は笑顔で送り出そう、勝って送り出そうとチームに伝えて試合に入りました」(黒田監督)
中心選手の移籍は、チームにとって痛手だ。しかし未来ある若者をスムーズに「次のステップ」へ送り出すことで、波及効果も出る。
高校サッカー歴の長い黒田監督だが、平河の移籍は快く受け入れた。
「高校の指導者だったら、説得する時間も長かったと思いますけど、これはプロの世界です。自分が成長するときだし、そのような考えを持たなければプロで長く監督はできない……という気づきのチャンスだと思いました。また彼の活躍によって次なる選手たち、または育成年代の子たちが夢を見られます。平河の活躍は必ずFC町田ゼルビアに返ってくるーー。そう信じて送り出します」
藤尾翔太は同じ2001年生まれで、平河とともに五輪へ出場するU-23日本代表だ。彼はピリ辛の励ましで、仲間を送り出した。
「悠を気持ちよく行かせるために、今日の試合は勝ちたかったです。悠には『俺にアシストしてから行け』と言っていたんですけど、(名古屋戦では)アシストをしなかったので、オリンピックでしてもらおうかなと思います」
オファーを受けて町田入りを即決
黒田監督も快く平河を送り出した 【(C)J.LEAGUE】
五輪代表レベルの選手で、これだけ晩熟な、注目されるタイミングが遅かった事例を他に知らない。彼は佐賀東高2年次に第96回全国高校サッカー選手権を経験しているが、当時は控えで全国大会に起用されていない。「10代の頃はプロにもなれないと思っていた」という、無名のサッカー少年だった。自らがパリ世代という意識も特になかったという。
しかし山梨学院大に入学すると、大きく実力を伸ばしていく。おそらくサッカー人生最大の転機となったのが「アミノバイタルカップ2021 第10回関東大学サッカートーナメント大会」だ。夏の総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントの予選となるカテゴリーを超えた大会で、東京都リーグ1部(当時は関東3部相当)の山梨学院が桐蔭横浜大、東海大、日本大を倒す下剋上を起こした。平河は攻撃の中心として、Jクラブのスカウトからその名を知られる存在となった。
平河は当時をこう振り返る。
「当時オファーをいただいたとき『このクラブに行く』とすぐ決めました。何の根拠もなく、活躍できるという直感だけで行きました」
町田は大学3年の彼にすぐオファーを出し、平河も即決した。そんな決断がストーリーの始まりだった。そのような思い切り、大胆さも彼の強みかもしれない。
当時のランコ・ポポヴィッチ監督は平河の才能を見込み、大学4年次から主力で起用しようとした。「山梨学院の関東2部昇格」も大切なミッションで、Jに出られる週末は限られていたのだが、それでも2022年のJ2は16試合に起用されている。
「ポポヴィッチ監督には沢山のことを教わりました。大学生で急に行ったのに、毎回のように試合に出させてもらって、経験値もそこで積ませてもらいました」(平河)