日本人初の欧州CL出場、異例の注目度… ハンドボール界に現れた新星・安平光佑が狙うは五輪8強

栗原正夫

卓越したスピードとテクニックで攻撃を引っ張る安平 【写真:REX/アフロ】

 長らくアジアの壁を越えられなかったハンドボール男子日本代表「彗星JAPAN」がパリ五輪に出場する。

 3年前の東京五輪はホスト国として出場するも参加12チーム中11位と結果を出せなかった。昨年10月、中東カタールで行われたパリ五輪アジア予選前も、突破(優勝)は厳しいとする声が多かった。だが、予選が始まると海外でプレーする新世代の若手がチームの軸に成長し、格上とされた韓国や中東勢を次々と倒し、88年ソウル五輪以来36年ぶりとなる自力での五輪本大会出場を決めた。

 その原動力となったのが、バーレーンとの決勝でチーム最多の10点を挙げた24歳のCB安平光佑(北マケドニア・RKヴァルダル)だ。172センチとチーム一小柄な司令塔は、激しいボディコンタクトを伴うハンドボールにおいて、どこか異質な選手に映る。昨年の予選前までは代表経験もほとんどなかった安平とはいったい何者なのか――。

異例の注目を集めた理由とは…

高い統率力で彗星JAPANの司令塔を担う 【Masao KURIHARA】

 5月上旬、パリ五輪に向けたハンドボール代表1次合宿の練習公開日には、40社70人以上の報道陣が集まった。人気競技なら、普通のこと。だが、マイナー競技ともいえるハンドボールでは普段はその半分、いや3分の1も集まるか怪しいことを考えれば、それがどれほど異例の状況だったかわかるかもしれない。

 昨秋、アジア予選で優勝したハンドボール男子日本代表は大会後、都内で五輪出場報告会を行なったが、安平は所属クラブの都合で参加が叶わなかった。そのため5月の代表合宿が実質的に五輪出場決定後、安平が国内でメディアの前に初めて姿を見せるということで注目を集めた。一方で、世間の認知度とは対照的に、ハンドボール界では安平の名前は知らない人はいないほど知られた存在だったことも事実である。

 ハンドボールの聖地ともいわれる富山県氷見市出身の安平は、小学1年でハンドボールに出会うと、西條中で春夏2冠を経験し、氷見高3年時の18年には選抜、インターハイ、国体の高校3冠を達成。日本体育大進学後もドイツの名門キールへの留学などを経て、3年時にフランス1部リーグのウサマ・ニームでプレーすると、4年時にはポーランドの強豪プウォツクに移籍し、日本人男子選手として初めて世界最高峰のEHF(欧州ハンドボール連盟)チャンピオンズリーグ(以下、CL)に出場。23-24シーズンはそのCLで過去2度優勝経験(16-17、18-19シーズン)のある北マケドニアのRKヴァルダルに期限付き移籍していた。

 ハンドボールでも他の競技同様、これまで海外でプレーする日本人選手はいた。だが、安平はCLに出場するなど新たな道を切り開いている。

 アジア予選を終えたあとには、多くのチームメートが「安平がいなかったら、予選突破は難しかった」と話した。パリ五輪に向けても、安平と同学年でチームに欠かせないピボットの吉田守一(23歳、ダンケルク→ナント)は「攻撃のカギはすべて安平が握っている」と言うほど信頼は厚い。

高校時代の恩師・徳前氏が語る安平の凄さ

安平を中央に右が徳前氏。左はハンドボール部副顧問だった谷内口功気教諭(当時) 【徳前氏提供】

 氷見高時代の恩師で、小学生時代から安平を知る現JHL(日本ハンドボールリーグ)富山ドリームス代表の徳前紀和さんは、当時の安平の印象についてこう話す。

「彼のお兄さん(拓馬、JHL大崎電気オーソル)もいい選手でしたが、光佑は中学のときから周りの選手とは違う別格の存在感がありました。最近は“司令塔”とか“ファンタジスタ”などと言われていますが、高校時代から試合を支配する能力は図抜けていました」

 そして、徳前さんは安平がいかに戦術眼に長けているかを示す、高校3冠達成時のエピソードを教えてくれた。

 18年の高校ハンドボール界で圧倒的な強さを誇った氷見高は、春の選抜で5試合、夏のインターハイで5試合、富山県代表として出場した福井国体で4試合、全国の舞台で計14試合を戦った。14試合目となった国体の決勝の相手は、地元福井の強豪・北陸高校だった。

「その年は大差で勝利することも多かったので、それまで私がベンチからタイムアウトを要求したことは一度もありませんでした。ただライバル北陸高戦の1点リードで迎えたラスト30秒ほどで、初めてタイムアウトを取りました。

 会場はほぼアウェー。プレッシャーがかかっても不思議ではない状況でした。もちろん1点リードしているので、失点さえしなければ勝利は決まります。そんななか光佑はベンチに戻ってくると、冷静に30秒の使い方についてチームメートに指示を出し始めました。当時、チームに190センチ近い長身のサイドの選手がいたのですが、光佑は26秒間を使って最後にサイドにボールを回すから、その選手に『思い切りゴールの枠を外してシュートを打て! 絶対にゴールをねらうな!』というわけです。

 ボールを大きく外すことで、時間を使い、ゲームはそこで終わります。緊迫した場面でしたが、光佑にはぜんぶ見えていたわけです。そのときに、やっぱりモノが違うと再認識させられましたね」

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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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