東京ドームで初めて勝ち名乗りを受けた吉野弘幸 1988.3.21の人生を変えた大一番

船橋真二郎

仲間であり、ライバルと

若き日の吉野弘幸(左)と大和武士。1986年~87年頃のスナップ 【写真提供:吉野弘幸さん】

 16歳から4年以上、続けてきた中華料理屋の出前持ちのアルバイトをやめ、坂本との大勝負に向けて吉野は練習に打ち込んだ。

「誰も俺が勝つなんて思ってなかったから。渡辺会長も『いい記念になるから』って、そういう考えだったと思うよ(笑)」

 実際、「吉野が勝つのは希望的観測」。それが渡辺会長の本音だった。だが、あるとき、吉野と大和武士のスパーリングを見て、フッと「もしかすると」と思ったことを覚えているという。

「2人のスパーを見て、『いやー、すごいな』って、自分の選手に感心してるんだから。スピード、パワー、抜群で。若くて、デカいのが、もうバチバチやってて。もちろん、不利は不利だから、もしかするとだけど、これは獲れるかもしれないって」

 年齢では大和が2つ上で、吉野がジムの2年先輩という関係。「仲間であり、ライバルだった」(吉野さん)。同じ年の新人王トーナメントに出て、東日本新人王準決勝で引き分け、優勢点で姿を消した吉野に対し、大和はジム2人目の全日本新人王に輝き、先に日本ランク入りを決めた。

 少年院の中で沢木耕太郎氏の『一瞬の夏』を読んでボクサーを志した経緯から、“和製タイソン”と呼ばれ、大和は注目を浴びた。日本タイトル挑戦も先を越された。

 階級的にも普段から頻繁にスパーリングをし、「吉野が鼻を折られたり、大和が一発でゴーンと倒されたり、内容は激しかった」と振り返る渡辺会長。同日のタイトル挑戦を前に2人のいつもとは違う何かを感じ取ったのだろうか。吉野さんは言う。

「何人もいらない。ひとりでもライバルがいたら、みんな、強くなるなと思ったね」

 先に挑戦者の吉野が仕掛け、好スタートを切る。3回、反撃に出た坂本と吉野が激しくパンチを交換。坂本の左フックで大きくグラついたのは吉野だった。

「自分の気持ちが普通だったら、あれで倒されてたね。大げさじゃなくて、人生を変える大一番でかつてないメンタルの状態で戦ってたから」

 こいつをぶっ倒す、俺は倒れない――。ここをしのぐと効かせ返し、ラウンド終了間際に坂本をノックダウン。4回、ダメージの残る坂本を痛烈に2度倒したところでレフェリーがストップをかけた。いずれのダウンも代名詞となる左フックだったことは言うまでもない。

 ヒーローは妙に冷静だった。

「嬉しかったけどね。ホッとしたのかな。周りのほうがね、飯田(裕トレーナー)さんが『吉野! やった! チャンピオンだよ!』って。俺は『分かった、分かった、落ち着いて』と(笑)」

 それでも「覚悟を決めて、あと半歩を踏み出す勇気ができた」ことは確かだった。

東京ドームの勝利の延長上に

 その後、吉野さんは36歳、2004年4月までリングに上がり、通算51戦という足跡を残した。1階級下のジュニアウェルター級(現スーパーライト級)で世界に挑戦し、ウェルター級で東洋太平洋王座も獲得。途中、ボクシングを引退してK-1に転向し、曲折を経て復帰するということもあった。復帰後はスーパーウェルター級で日本王座を獲得。最終盤にはミドル級でも戦った。

「最近は選手志望が少ないからね。前はもう少しいたんだけど……」

 最近のジムの様子を尋ねると、少し寂しそうな声で返ってきた。「エイチズスタイルボクシングジム」はフィットネス中心のアマチュアジムだが、現在も1人、一昨年の全日本社会人選手権で3位に入賞した選手が練習しているという。

「いや、頭が固いの。まとも過ぎちゃって、動きが相手に読まれちゃう。もっと、いろいろ変化をつければいいんだけどさー」

 また声が弾む。「もっと戦い続けていたかった」という思いがにじむ。妻でマネージャーの知子さんが、以前はアマチュアの15歳以下の全国大会に出場するような小・中学生も何人かいたが、コロナ下で対人練習ができなくなり、選手も含めて一気に減ってしまった、ということだった。「そういう子たちがどんどん来てくれたらいいんだけどね」と願う吉野さんである。

 そうかと思えば、リングで軽めのスパーリング中のフィットネス会員の男性に「美味しいお酒のために頑張ってよー」と声をかけ、「いや、レバー(肝臓)ブローが弱くて」なんて軽妙な会話がかわされ、ジムの楽しい空気は十分に伝わってきた。

 この空間も東京ドームの勝利の延長上にある。人生がガラッと変わった場所の心に浮かぶ景色は?

「いや、広すぎたね。後楽園ホールは席が近くて、顔、顔、顔って感じで、逆に意識しちゃうんだけど。ドームは遠いから、一歩引いて、冷静にできるというか。俺はやりやすかったけどね」

 1990年2月11日、2回目の東京ドームではタイソンが敗れる“世紀の番狂わせ”が起きた。34年ぶり3回目のリングに立つ選手たちは、どんなドラマを繰り広げ、どんな場所として記憶にとどめるだろうか。

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京都出身。『ボクシング・ビート』(フィットネススポーツ)、『ボクシング・マガジン』(ベースボールマガジン社=2022年7月休刊)など、ボクシングを取材し、執筆。文藝春秋Number第13回スポーツノンフィクション新人賞最終候補(2005年)。東日本ボクシング協会が選出する月間賞の選考委員も務める。

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