元世界王者の比嘉大吾と宮古島で切磋琢磨した2人 川満俊輝、狩俣綾汰の“あららがま魂”

船橋真二郎

前列左から高校時代の狩俣綾汰、比嘉大吾、川満俊輝と知念健次監督 【写真提供:狩俣綾汰】

宮古島のあららがま魂

 初めて「あららがま」という耳慣れない言葉を聞いたのは、まだ世界チャンピオンになる前の比嘉大吾(現・志成)からだった。沖縄・宮古工業高校での練習がいかに辛く、厳しかったかについて、とうとうと話していたときである。

「宮古島の言葉であるんですよ。なにくそ、みたいな」

 2011年2月11日。高校受験を目前に控えた中学3年生の人生は急転回する。井岡一翔(井岡=当時)が5回TKO勝ちでWBC世界ミニマム級王者になったからだ。生中継が早く終わり、代わりにテレビに映し出されたのが具志堅用高のKOダイジェストだった。「初めて見た昭和の古くさい映像」が野球少年の心に触れた。

「高校でボクシングをやりたい」。比嘉は宮古島で仕事をしていた父親に電話で相談し、沖縄本島から海を隔てること約300 kmの離島に移り住んだ。中学校の軟式野球部を引退後、硬式野球のチームに入り、高校野球に備えていたはずの少年は父親と2人で暮らし、ボクシング漬けの日々を送ることになる。

「大吾は沖縄の子どもだったんだけど、ボクシングのために宮古に来て、もう宮古の子どもなんだから、負けたらダメだよ、あららがま魂だよって。ハッパをかけたことを覚えてます」

 ラーメン店を営みながら、現在も同校で指導を続ける知念健次監督が振り返る。困難に負けるな、なにくそと乗り越えろと激励し、叱咤する「宮古島のかけ声みたいなもの」だという。

「例えば、体育の行事とかでも『あららがまで頑張れー!』と声をかけたり、宮古島から本島、東京とかに出ていくときでも、おじい、おばあ、親が『あららがま魂で負けるなよ』と子どもを送り出したりするんですよ」

 知念監督の叱咤以上の激しい言葉が飛ぶなか、厳しい練習に食らいついた宮古島の3年間で、あららがま魂は叩き込まれた。

 高校卒業後、宮古島から東京へ。プロボクサーとなった比嘉はどでかいことをやってのける。2017年5月20日、日本史上初の全勝全KO勝ちでWBC世界フライ級王座を奪取した。

 当時の所属ジムの具志堅用高会長は「今頃、宮古島は揺れてるんじゃないかな」とユーモアを交えてつぶやいたが、ともに汗を流し、切磋琢磨した2人の心を確かに揺り動かした。

 東京・練馬の三迫ジム所属、川満俊輝(かわみつ・としき/28歳、9勝5KO1敗)と狩俣綾汰(かりまた・りょうた/28歳、9勝5KO2敗)。川満は昨年12月、宮古島出身者として初の日本王者になり、狩俣は2021年2月、同じく全日本新人王になった。

比嘉の世界奪取を目にして……

比嘉(右)の世界奪取が川満、狩俣に与えた影響は大きかった 【写真:アフロスポーツ】

 その日、2人はいてもたってもいられず、試合会場の東京・有明コロシアムに駆けつけていた。村田諒太(帝拳)がWBA世界ミドル級王座を“疑惑の判定”で取り逃がし、寺地拳四朗(BMB)が2-0の判定で接戦を制してWBC世界ライトフライ級王座を初戴冠した、そんな夜だった。かつての戦友が6度のダウンを奪う圧巻のKO劇を見せた。

「高校で一緒に頑張ってた大吾が、こんな大きな舞台ですごいな、ほんとに強いなって、刺激を受けました。俺はどこまで行けるだろうって」

 川満は当時、鹿児島・第一工業大学の4年生。高校卒業時も「プロでやってみたい」と葛藤はあったが、家族の反対もあり、踏ん切りがつかなかったという。「大学で続けて、熱が冷めないか。それから決めようと」。その夏、宮古島に帰って、「どうしてもやりたいと父ちゃんに伝えたら、できるところまでやってみろ、と言ってもらえたので」

 本島の沖縄水産高校で1981年のインターハイ・スーパーヘビー級優勝の実績があり、元プロの日本ランカーでもある知念監督に相談し、紹介されたのが、現役時代にお世話になったという三迫ジムだった。

 比嘉の殊勲に背中を押され、「よし、俺も」とチャンピオンを目指して、プロに飛び込むことを決めた川満に対し、狩俣の場合は異なる。

 兵庫・芦屋大学でボクシングを続けてはいたものの、「熱があったわけじゃなかった」という。「宮古を出て、知らない世界を見てみたい」。そういう好奇心のほうが強かった。

 比嘉の世界奪取の日は関西学生リーグ戦の真っ最中。本来なら翌日が試合日で、足を運ぶことはできなかったはずが、何の巡り合わせか芦屋大学のリーグ戦の休養日にあたっていた。「こんな会場ですごいな、強いな」と川満と同じく感嘆したが、嬉しさとともに抱いた感慨は違った。

「高校の頃はあんなに近くにいた大吾が。遠い存在になったな……」

 それでも初めてレギュラーに抜てきされた大学最後のリーグ戦で奮起する。個人としても通算4勝1敗で階級賞に選出され、階級別の団体戦のトップバッターであるライトフライ級で勢いをつけてリーグ戦3連覇に貢献した。

 卒業後、宮古島のリゾートホテルで働いていた狩俣を待っていたのは「もったいない」という周囲の声だった。「あの比嘉」とともに頑張っていた高校時代を誰もが知っていた。しばらくしてアマチュアの全日本社会人選手権に出てみようと知念監督のもとで練習を再開。比嘉がパンチにものを言わせて倒しまくる姿を目にして以来、「薄々、感じていたこと」が心を占めていった。

「あのプロの薄いグローブなら、自分のパンチはどこまで通用するんだろう?」

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著者プロフィール

1973年生まれ。東京都出身。『ボクシング・ビート』(フィットネススポーツ)、『ボクシング・マガジン』(ベースボールマガジン社=2022年7月休刊)など、ボクシングを取材し、執筆。文藝春秋Number第13回スポーツノンフィクション新人賞最終候補(2005年)。東日本ボクシング協会が選出する月間賞の選考委員も務める。

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