東京ドームで初めて勝ち名乗りを受けた吉野弘幸 1988.3.21の人生を変えた大一番
人気を呼び、満員のファンを集めた吉野
東京ドームで日本タイトル獲得直後のスナップ。吉野は当時20歳、渡辺会長は38歳だった。 【写真提供:吉野弘幸さん】
下積み時代に中華料理屋のアルバイトで出前持ちをし、左手に重い岡持ちを持って、自転車で来る日も来る日も出前を続けた。そのうち左腕が太く、強くなり、下半身も鍛えられた。利き腕は左だが、逆に左を前に右構えで構える。パンチの強さで左拳は2度骨折し、折れた骨をチタン合金で接合する手術をした。どこか劇画的なエピソードに彩られていた。
下町気質のカラッと明るいキャラクターも相まって人気を呼び、後楽園ホールに毎試合のように満員のファンを集めた。そんな熱気あふれる表舞台に吉野が立つようになったのは、ひとえに東京ドームの勝利があってこそだった。
坂本もどこか型破りだった。アマチュア歴がある。が、正統派のホープではない。高校2年のときにインターハイでベスト8も、部の顧問とぶつかって退学。翌年、別の高校に転校して国体にも出場した。肌が合わずに名門・日大は中退し、今度は米国の大学に留学。現地でアマチュアのリングに立ち、5戦5勝5KO。プロになるつもりがビザの関係で叶わず。日本でデビューした経歴の持ち主、と当時のボクシング・マガジン誌にある。
吉野は17歳のとき、ミドル級でデビューし、同じ相手に2戦連続KO負けからのスタート。ところが翌日には普通にジムに練習にやって来る。「こいつ、へっちゃらな男なんだな、と思った」とは渡辺会長の述懐。くよくよ引きずらない性分も大きかった。ウェルター級に階級を落としてからは6勝4KO1敗1分。坂本戦の前には日本ランカーを初回KOで片づけているのだが。
「パンチには自信があったんだけど、ここに入れば倒せるっていう、あと半歩の距離を踏み出す勇気が俺にはなかった」
力を発揮しきれていなかった無名の日本ランカーは、ここ一番で最高の集中力を見せる。
「こいつをぶっ倒す、ぶっ倒す、俺は倒れない、倒れないって念じ続けて。耳に入ってくるのは自分のセコンドの声だけ。あとは静寂の中。他の人の声や音は一切、聞こえない。あのときほど研ぎすまされた集中力は、後にも先にもなかった」
そこまで思いつめ、坂本戦に懸けた裏には「帳消しにしたい」少年時代の過去があった。
「いつか見返してやる」
吉野さんが大切に保管していた1988年3月21日のポスターとプログラム 【写真:船橋真二郎】
借金のカタに家を手放すことになるのは中学3年のときだった。母のパート先だった運送会社の狭いアパートに身を寄せた。思い出のつまった家が壊されていくところを目の当たりにした。小さな庭には可愛がっていた2匹のネコの墓もあったのだ。無情にもすべてが失われていくさまを心に刻みつけた。
「中学を卒業したら、働かなきゃいけない」。自覚は早くからあった。母の勤めていた運送会社で運転手の助手として働き始めた。その一方でボクシングジムに入門した。
「いつか見返してやる」
ずっと溜め込んできた悔しさ、つらさ、悲しさ……。そんな思いの発露だった。ボクシングは父が大好きで、具志堅用高の世界戦を一緒にテレビで見た思い出は残っていた。
最初のジムは仕事が忙しく、2~3回しか行くことができなかった。ボクシングを人生の中心に据えるため、地元の青砥駅を起点に線を引き直した。都心(京橋、のち東銀座)にまかない付き、交通費全額支給の中華料理屋のアルバイトを見つけ、さらに線を伸ばした先に五反田のワタナベジムがあった。
ジムの会員集めの戦略で、当時から朝早くから夜遅くまで開いていたことも、吉野には好都合だった。基本は店の昼休みを練習時間にしたが、渡辺会長は「いつでもやりたいときに練習していいよ」とカギの置き場所も教えてくれた。
定期券を購入し、早朝からジム、日中は出前持ち、昼休みにジム、夕方から出前持ち、夜遅くにまたジムへ。そんな1日もあったという。ジムに行く時間にはトレーナーがいないことが多く、最初の段階で“我流”だったことが吉野のボクシングを形づくることになる。こうして吉野の左は磨きあげられ、思いが込められていったのかもしれない。
「こっち(右構え)のほうがしっくりきたしね。渡辺会長があんまり細かいことは言わないで、自由に伸び伸びやらせてくれたから、俺の個性的なスタイルができて、それが最大の武器になるから。もし、他のジムだったら? どうだろうな。変にきれいにこじんまりしちゃってたかもね(笑)」
何かの巡り合わせだろうか。吉野がワタナベジムに入門し、ボクサー人生が本格的に始まった1983年11月19日は父の命日だったという。