黒田監督が語る町田のJ2制覇とJ1昇格 「高校とプロは違う」の声にはどう応えたのか?

大島和人

黒田剛監督(写真中央)は町田をJ2優勝、J1制覇に導いた 【(C)J.LEAGUE】

 FC町田ゼルビアは2023年シーズンのJ2を2位と勝ち点12差の独走で制し、J1昇格を決めた。ただし事前に優勝、J1昇格が有力視されていたチームではない。開幕前にはコーチ陣が総入れ替えとなり、選手も半分以上が入れ替わった。エリキ、デュークと言った大物FWこそ獲得したが、新監督はプロ経験がない「高校サッカーの名将」だった。しかし黒田剛監督はそのような低評価、懐疑的意見に対して堂々たる結果で応えた。

 もっともチームが順風満帆に42試合を終えたわけではない。特に攻撃陣はエースのエリキが8月に負傷で戦列を離れ、他のアタッカーも代表活動で抜かれた試合が度々あった。シーズン半ばを過ぎて、勝ち点獲得のペースが落ちた時期もある。しかしチームは結束を保ってピンチを乗り越え、初のJ1昇格を決めた。

 53歳の新人監督がJ2優勝、J1昇格における最大の立役者であることに疑問の余地はない。彼が何を考えながらシーズンを戦い、結果を出した今は何を考えているのか? 「オフピッチの雑音」に対してどんな感情を持ったのか? そして「街とクラブ」の関係をどうしたいと願っているのか? 町田のJ2制覇、J1昇格を振り返るインタビューシリーズ第3回目は、そんなテーマを黒田監督に語ってもらっている。

目標通りだった前半戦

――黒田監督は開幕前の取材でJ2優勝・J1昇格に加えて、「勝ち点90・失点30」とかなり高いシーズンの数値目標を提示していました。結果として「勝ち点87・失点35」でほぼそれを達成したシーズンとなりました。ただ数値目標が裏目に出た、揚げ足を取られたクラブも過去にはあります。かなり野心的な目標を最初に提示した理由を教えてください。

 まず「達成できなかったから失敗」という捉え方はしていません。単純に昨シーズンのアルビレックス新潟が勝ち点「84」で優勝を決め、失点も「35」でした。その数値を上回るような目標にしたかったことと、勝ち点が70台だと拮抗(きっこう)して優勝に届かないかもしれない。そこを考えてまず「勝ち点90・失点30」を目指してやっていこうという発想でした。かなり高い目標値ではあったけど、まずそこを目指してやることが大切です。あとでそこへの批判がどう……ということはあまり気にしませんでした。

 自分たちがキャンプを通じてやってきたこと、J1と戦って6戦6勝できたことも踏まえて、絶対に自分たちは優勝・昇格できるという強い気持ちをしっかりと確立した上で、みんなでそこを目指そうとスタートを切りました。チーム内で「無理でしょう」とか「そこまでは」という選手、スタッフはひとりもいませんでした。

――実際にチームは好調なスタートを切りました。

 第1タームの最初の7試合で、もう(勝ち点を)「19」取ったので、「そこまで極端に高い目標ではなかったかな」くらいの感覚になったと思います。(※黒田監督は1シーズン42試合を7試合ずつ6つのタームに分けて、1タームの勝ち点「15」を目安として提示していた)

 第1タームで「19」、第2タームで「30」、第3タームが「46」となって、そこまでは目標をクリアできていました。徐々に「90」という目標が、達成できない数値ではないことを、彼らがジワジワと実感してきたと思います。もし最初のタームが10以下で終わったりしていたら、目標値を変えることがあったかもしれないけど、我々はそれを確実にクリアし続けられていた。ただ第4タームと第5タームが少し落ちましたね。

結束の「きっかけ」を生かす

エリキ負傷直後の山形戦は5-0の快勝だった。 【(C)J.LEAGUE】

――ちょうど(第31節・清水エスパルス戦で)エリキの負傷離脱もありました。

 エリキがいたときも、アウェイの栃木戦(第21節)、水戸戦(第22節)に引き分けたりして、第3タームと第4タームの入れ替わりのところで少し勝ち切れない試合が増えていました。千葉とのホーム戦(第27節/1-3●)もあったでしょう。エリキがいる、いないに関係なくちょっとそういうスパイラルにはまっていたかな……。

 ただ連敗をしなかった、または同一チームに2連敗しないことが大きかった。少し上手く行っていない状況からでも、翌節にはきちっと春先に掲げたベースへ立ち返れました。町田が最終6タームを5連勝で終了できたのも、一人ひとりがベースに立ち返り忠実に実践することができたからだと思います。

――終盤は完全に復調して、10月14日のブラウブリッツ秋田戦から全勝です。

 最後に引退を表明した太田宏介が試合出場し全勝しています。彼の引退のタイミングも含めて、チームがもう1回結束したところがありますね。エリキがいなくなったときもそうですけど、チームが結束力を持つための「きっかけ」がこのチームにはいろいろあった。言葉は悪いけど、その流れをうまく利用しながら、波に乗れた印象もあります。

厚い選手層を確保しつつ「代表」に苦しむ

藤尾翔太は徐々にフィットして貴重な戦力となったが…… 【(C)J.LEAGUE】

――町田はハードワーク、徹底をベースにするチームです。夏場の戦いは難しくなる、減速するかもしれない……という感覚は事前にお持ちでしたか?

「選手層で何とかカバーできるかな」というところでした。他のチームより断然走れる荒木駿太とか、(宇野)禅斗とか、途中で入ってきた(松井)蓮之も含めて、なかなか疲弊しないタイプの選手が、実際にかなり穴を埋めていたと思います。

 あとは藤尾翔太が夏以降すごく良くなってきました。春先はもうどうなるかなと思ったけど、身体を一回り大きくして、体力がついて、デュークやエリキがいないときに結果を出してくれた。誰かの不在を埋めてくれる選手が出てきたことも、今年のチームが勝ち続けた大きい要因です。

――J2は「国際Aマッチデー」にもリーグ戦があります。シーズン中にも仰っていましたが、監督としてデューク、藤尾、平河悠ら主力アタッカーが同時に代表へ招集される難しさがあったはずです。

 町田の監督になるまでJ2クラブから代表で抜かれることがこんなに多いと思わなかったんですよ。「デュークがオーストラリア代表で抜かれる」くらいは聞いていました。それに備えて藤尾翔太をレンタルで借りてきましたから。彼が使えるメドがやっと立ったときに、平河(悠)を見ていたU-22日本代表チーム(のスタッフ)に藤尾の成長を評価され、そちらも抜かれてしまいました。何のために(セレッソ大阪から)レンタルしてきたのか分からない状態で3回も抜かれ、そのうえ最後はけがして帰ってくるし……。エリキも入れると、デューク、藤尾、平河と(前線の主力)4枚中4枚がすべて不在だった試合もあります。そこはもう本当に息が詰まったし、ここまで一緒に頑張ってきた選手たちの気持ちを考えたら、やり切れない気持ちはありました。

 ただそこで、これまであまり出場機会のなかった選手たちが、奮起してくれたことは本当に大きかったです。メンバー外が続いていた選手たちが、その期間にも腐らず成長のためにやり続けてくれていた。最後はそのような総合力の勝利だったという感覚もあります。

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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