町田が直面した新国立の難しさ J2首位攻防戦で勝ち切れなかった理由とは?

大島和人

7月9日の東京クラシックは4万人近い来場者があった 【(C)J.LEAGUE】

 Jリーグが開幕した1993年当時、FC町田ゼルビアの源流「FC町田トップ」は東京都社会人サッカーリーグ3部を戦っていた。そんな市民クラブは関東リーグ、JFLと一歩一歩積み上げ、2012年には初のJリーグを経験する。しかしJ2最下位となり史上初の、現時点では唯一のJリーグ退会も経験した。町田はJリーグの60クラブの中でもかなりユニークで、波乱万丈の成り立ちを持つ存在だ。

 7月9日の東京クラシックは、町田にとってクラブ創設以来の『晴れ舞台』だった。会場は新国立競技場で、迎える相手は2位の名門・東京ヴェルディ。クラブはもちろんリーグが目玉カードとして売り出す試合となり、様々なプロモーションや招待施策も行われていた。

 来場者数は38402名で、集客は大成功だった。町田GIONスタジアムで過去に記録された最多入場者数は10444名(今年5月21日の清水エスパルス戦)で、国立開催以前のホーム12試合は平均観客数が4千人台。38402名はケタ違いのスケールだった。

 町田はJ2の首位を独走していて、「一度見てみよう」という他サポもいたはずだ。さらに試合の3日前にバイロン・バスケス選手の町田移籍が発表され、引き抜かれた東京Vから見れば昇格争いとは別の「負けられない理由」が生まれた。ヴェルディサポーターの人数、熱気も普段以上だった。

2点リードから追いつかれる

 営業的には町田がJ2優勝、J1昇格に向けて弾みをつけるいい機会だった。試合も2-2の引き分けで、ライバルに勝ち点3を与えなかった部分はポジティブだ。一方で前半2分、38分のゴールで2点をリードして後半を迎えたにもかかわらず、追いつかれた展開は苦味の残るものだった。

 町田は「入り」を重視して試合に臨み、前半45分は成功した。試合後に黒田監督はこう振り返っている。

「選手たちをあくまでも冷静に、平常心でスタートしていこうと送り出しました。私は高校サッカー時代に開始10分、11分のところでミドルシュートを決められて、スタートのところから一気に走られる負け方をした経験があります。そういう入り方は絶対させないように、冷静に対応するように促しました。前半の入り方は良かったのかなと思っています」

 「開始10分、11分のミドルシュート」は、第88回全国高等学校サッカー選手権大会の決勝戦で起こった出来事だ。青森山田は2011年1月11日の国立競技場で、碓井鉄平(現カターレ富山)に左45度からのミドルを決められた。青森山田は流れに乗れず、0-1で山梨学院の優勝を許している。

 12年半後の東京クラシックは、黒田監督にとってもおそらく最高の前半だった。町田はボールの保持を許しつつ緻密に危険なスペースを消し、カウンターにつながるボール奪取も出せていた。前線の柱デュークを警告の累積による出場停止で欠いていたが、代役の藤尾翔太は先制ゴールを決めるなどノッていた。

 耐えて刺す流れは町田の十八番で、本来なら相手がボールを持つほど、前がかりになるほど町田は戦いやすくなる。

3バックの守備固めが不発に

U-22代表の藤尾翔太はチームへ徐々に適応している 【(C)J.LEAGUE】

 後半はそんなチームが珍しく自滅した。町田は後半7分、荒木駿太の投入とともに布陣を3バックに変更する。押し込まれる状況で、サイドとゴール前が開かないように後ろを厚くする布陣変更はロジカルだ。しかしこの日に限っては町田DFのスライドが遅く、「人が揃っているのに潰せない」場面が多かった。

 東京Vは選手交代が奏功した。66分から左サイドで起用された新井悠太は東洋大3年生の特別指定選手で、Jリーグの出場はまだ2試合目。ただし5日のV・ファーレン長崎戦ではゴールも挙げている。彼が持ち味のドリブルでサイドを崩し、反攻の立役者になった。

 町田は73分に染野唯月のヘッドで1点差に迫られると、83分には新井の突破から染野の同点弾を許す。

 その後も東京Vの攻勢が続いた一方で、94分にはエリキがカウンターから抜け出して1対1となる千載一遇のチャンスがあった。しかしJ2得点ランキング1位の名手が、シュートを大きく吹かしてしまう。

 試合後の選手たちはかなり重い空気をまとっていた。エリキはこう述べている。

「チームが勝てなかったことに大きな責任を感じています。(最後のシュートミスは)間違いなく自らのミスであり、技術的なミスでした。(ミスは)サッカーの一部ですけれど、自分は今までのキャリアでもそういう責任を負ってプレーしたので、チームメートに申し訳ない気持ちです」

 GKのポープ・ウィリアムは1失点目を悔いていた。

「どうゼロで進めていくかがウチのベースになります。僕が手前でパンチングをするか、行かない判断をしてシュートにしっかり反応できていたら、またゲームは変わったと思います。僕が少しゲームを難しくさせてしまった」

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著者プロフィール

1976年に神奈川県で出生し、育ちは埼玉。現在は東京都北区に在住する。早稲田大在学中にテレビ局のリサーチャーとしてスポーツ報道の現場に足を踏み入れ、世界中のスポーツと接する機会を得た。卒業後は損害保険会社、調査会社などの勤務を経て、2010年からライター活動を開始。取材対象はバスケットボールやサッカー、野球、ラグビー、ハンドボールと幅広い。2021年1月『B.LEAGUE誕生 日本スポーツビジネス秘史』を上梓。

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