特集:Jリーグ30周年~激動の時代を彩った偉大なチーム&プレイヤー

水沼貴史、福西崇史、槙野智章が厳選した「Jリーグ歴代最強チーム」 時代を超えて実現させたい夢のカードは──

吉田治良

史上初の“完全優勝”を果たした2002年の磐田だが、元Jリーガー3氏はいずれもベスト3に選出しなかった。これを上回る最強チームは? 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】

 30年の歴史の中でJリーグ王者に輝いたのは、最多優勝8回を誇る鹿島アントラーズを筆頭に、わずか10クラブのみ。ただし、「チャンピオンチーム=最強」の図式は、必ずしも成立しないようだ。異なる時代を生きた元Jリーガーの水沼貴史、福西崇史、槙野智章の3氏が、思い入れたっぷりに「歴代最強チーム」を選出する。

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槙野智章氏が選ぶJ歴代最強チーム

1位:2020年の川崎フロンターレ(リーグ:優勝/リーグカップ:ベスト4/天皇杯:優勝)
2位:2016年の浦和レッズ(リーグ:年間2位/リーグカップ:優勝/天皇杯:4回戦敗退)
3位:2012年のサンフレッチェ広島(リーグ:優勝/リーグカップ:GS敗退/天皇杯:2回戦敗退)

「どんな相手も僕たちが圧倒した」と槙野氏(右)が振り返るのが、断トツの年間勝ち点74をたたき出した2016年の浦和だ。2ステージ制の復活がなければ…… 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】

 2012年に初めてJ1リーグを制したサンフレッチェ広島は、実際に対戦してとてもやりづらさを感じたチームでした。

 ちょうど僕がヨーロッパ(ドイツのケルン)から日本に戻って、ミシャさん(ペトロヴィッチ監督)が新監督に就任した浦和レッズの一員となったシーズンでしたが、そのミシャさんが作り上げた攻撃的なサッカーに、跡を継いだ森保(一)さんが守備力を上書きしたようなチームで、攻守のバランスが非常に優れていました。特定の個の力というよりは、チーム全体としての質が高くて、開幕戦で対戦した時に、いきなり戦術的な完成度の違いを見せつけられた印象があります(広島がホームで1-0の勝利)。

 そして、まさにこの年から、ともに僕の古巣である広島と浦和の因縁が始まったというか、ライバルとして互いに切磋琢磨しながら高め合うような関係が築かれていったように思います。

 チャンピオンシップ決勝で鹿島アントラーズに敗れ、年間王者にはなれませんでしたが、16年の浦和はJリーグの歴史に残るようなチームでした。

 第2ステージを制し、年間勝ち点74は断トツのリーグ1位で、当時のJ1史上最多タイ記録(15年の広島と並ぶ)。「KLM」(興梠慎三、李忠成、武藤雄樹)と呼ばれた1トップ+2シャドーだけでなく、どこからでも点が取れましたし、どんな相手であっても僕たちが圧倒していましたね。

 遠藤航選手の加入も大きくて、僕と森脇(良太)選手と一緒に組んだ3バックの得点力も凄かった。まさに「攻撃は最大の防御」で、失点もリーグ最少。これといった穴がなく、チームとしてやりたいことがすべて出せたシーズンでした。だからこそ、レギュレーションの変更(前年度に2ステージ制&CSが11年ぶりに復活)がなければ……という想いも少なからずありますね。

 このシーズンは、僕も含めて浦和から4人(西川周作、阿部勇樹、柏木陽介)がベストイレブンに選出されましたが、個人的にMVPを選ぶなら興梠選手ですね。ただ点を取るだけでなく、チームの攻撃をけん引する役目も担っていたし、一緒にプレーしていて、その重要性を強く感じました。それに彼は、人間性もパーフェクトですからね(笑)。
 ただ、それ以上に強かったのが、20年の川崎フロンターレ。浦和のJ1最多勝ち点記録を大幅に塗り替え(83)、歴代最速優勝を決めたチームは、やっているサッカーの質も選手個々の能力も、ちょっとずば抜けていました。

 従来のポゼッションサッカーに、縦へのスピードや強烈なプレッシングなどプラスアルファの要素が加わって、16年の浦和と同じく、どの試合でも相手を圧倒していた印象があります。

 ルーキーの三笘(薫)選手がブレイクしたシーズンですが(13得点・12アシスト)、彼だけじゃなくレアンドロ・ダミアン選手や家長(昭博)選手も良かったし、誰か1人に絞り切れないくらい、すべての選手が素晴らしかった。だからこそ、(2部制となった99年シーズン以降で)歴代最多の88ゴールを量産し、独走でリーグを制することができたんでしょう。それに、(中村)憲剛さんのラストイヤーということもあって、チームの結束力も強かったですね。

 Jリーグ30年の歴史の中では、やはり16年の浦和と20年の川崎Fが最強チームの双璧だと、僕は思っています。

福西崇史氏が選ぶJ歴代最強チーム

1位:2001年のジュビロ磐田(リーグ:年間2位/リーグカップ:準優勝/天皇杯:ベスト8)
2位:1999年の清水エスパルス(リーグ:年間2位/リーグカップ:ベスト8/天皇杯:ベスト8)
3位:1997年の鹿島アントラーズ(リーグ:年間2位/リーグカップ:優勝/天皇杯:優勝)

時代の最先端を行く「N-BOX」システムが話題を呼んだ2001年の磐田。福西氏(左)は「あのシーズンがあったからこそ、翌年の完全優勝があった」と語る 【写真は共同】

 ジュビロ磐田が初の年間王者に輝いた1997年シーズンですが、チャンピオンシップ(CS)を戦った鹿島アントラーズは、「勝つために何をすべきか」を熟知しているチームでしたね。

 僕たちにあえて持たせたり、徹底して裏に蹴りこんできたりと、勝つために躊躇なく割り切った戦い方を選択できる。プレーをしていても、「嫌だな」って感じる場面が多かったですね。実際、CSは接戦の末に磐田が勝ちましたが、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)決勝は完敗でしたから(2戦合計2-7/福西氏は2戦とも欠場)。

 なかでもビスマルクはめちゃくちゃ嫌でしたね(笑)。中盤で服部(年宏)さんと僕がマッチアップしていたんですが、振り回された印象が強い。センターバック(CB)に秋田(豊)さんと奥野(僚右)さん、中盤には本田(泰人)さん、前線には黒崎(久志/当時の登録名は比差支)さんと、仕事人と呼べるような“いやらしい”選手がとにかく多かったです。

 99年のCSを戦った清水エスパルスも強かったですね。結果的に磐田が勝ちましたが、2試合とも延長Vゴールの接戦で、最後はPK戦での決着と、まさに紙一重の戦いでした。

 アレックス(三都主アレサンドロ)の左サイドからの突破は止めるのが簡単ではなかったし、右からは市川(大祐)もオーバーラップを仕掛けてくるなどサイド攻撃が強烈で、(森岡)隆三を中心とした守備も堅かった。テルさん(伊藤輝悦)や戸田(和幸)なども含めて代表クラスがひしめいていましたが、とくに凄かったのがノボリさん(澤登正朗)。ボールを取りに行っても上手くかわされて、質の高いパス、ドリブルだけでなく、高精度のFKも持っていたので、本当に困らされました。

 なにより、あの年のCSは静岡ダービーということもあって、歴代でも一、二を争う盛り上がりでした。スタジアムの熱量がハンパではなかったし、地域のサッカーに対する想いというのが、ピッチで戦っていてもひしひしと伝わってきましたね。

 それでも、僕の中で歴代最強チームは2001年の磐田です。完全優勝した翌02年のチームよりも印象に残っているのは、最先端のサッカーを、監督のマサくん(鈴木政一)と選手たちで話し合いながら、一緒に作り上げたという感覚が強くあるからです。

「N-BOX」と呼ばれたサイドに人を置かないシステムは、「5レーン」や「偽サイドバック」といった言葉がなかった時代にあっては画期的でしたが、そうした理論を当たり前のように実践していましたからね。それでいてシステムに縛られることなく、臨機応変さも備えていて、言葉を交わさなくても選手同士が分かり合えるようなチームでした。相手の長所を消すのではなく、自分たちのサッカーを貫いて勝ち切ってしまう。そんな強さがありましたね。

 結局、「N-BOX」の中心にいた名波(浩)さんが怪我をしたこともあってタイトルは獲れませんでしたが、衝撃度は間違いなくナンバー1。あのシーズンがあったからこそ、翌年の完全優勝があったと思います。

 当時のチームでMVPを選ぶなら、“ゴン・タカ”(中山雅史と高原直泰)の2トップでしょうね。決定力の高さはもちろん、中山さんの前からの守備も強烈でしたし、あの2人で3人分以上の働きをしていました。僕にとっては歴代でもナンバー1の2トップです。

 今思えば、20年くらい時代の先を行くサッカーでしたよね。それを監督、選手の間でときに意見をぶつけ合いありながらも、チームが1つになって作り上げていけたことに大きな価値がある。自分がその中にいられたことを、今でも幸せに思うんです。

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著者プロフィール

1967年、京都府生まれ。法政大学を卒業後、ファッション誌の編集者を経て、『サッカーダイジェスト』編集部へ。その後、94年創刊の『ワールドサッカーダイジェスト』の立ち上げメンバーとなり、2000年から約10年にわたって同誌の編集長を務める。『サッカーダイジェスト』、NBA専門誌『ダンクシュート』の編集長などを歴任し、17年に独立。現在はサッカーを中心にスポーツライター/編集者として活動中だ。

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