“ツネ様”宮本恒靖が選ぶ!Jリーグのベスト3シーン 伝説オーバーヘッドは「人生初」だった
2005年にガンバ大阪を悲願の初優勝に導いた 【写真は共同】
「日本のサッカーがよくなっていこうと。そんな時流のなかで開幕戦を迎えて、『もう夢しかない』という雰囲気でした」
そう当時を振り返るのは、1995年にガンバ大阪でJリーグデビューを果たし、“ツネ様”の愛称で親しまれた、宮本恒靖氏だ。
現役引退から12年。現在は日本サッカー協会の専務理事に従事する宮本氏が、Jリーグ30周年企画として、自らの選手時代の思い出を語る。
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ピッチ内外で役立った、“文武両道”
Jリーグでの思い出を笑顔で振り返る宮本⽒ 【スポーツナビ】
高校2年生でした。ガンバ大阪ユースに所属していたので、自分が所属しているクラブのトップチームがプロになるということで、Jリーグの舞台は自ずと意識しましたね。当時からディフェンダーをやっていたので、井原(正巳)さんに憧れていました。
――ガンバのトップチーム昇格と同時に大学にも入学し、今でいう“文武両道”の第一人者でもある気がします。やはり大変でしたか?
大学との両立は確かに忙しかったのですが、ユースの時も学校生活と練習でだいぶ忙しくしていたので、高校時代の延長線といった感じでした。練習場と寮と大学が近いところを選んで、午前中の練習が終わったら、2部練の間に3限目を受けるとか。卒業までに5年半掛かりましたし、すごくハードでしたが、当時はプロとしてやっていける自信もそこまでなかったし、選手をしていればけがをする可能性もある。それに、自分のなかにいろいろな可能性を持っておくことは大事かなと思っていました。
――その心配とは裏腹に、Jリーグではどんどんと出場機会を重ねました。選手として生き残っていくために、心がけていたことはありますか?
自分の強みを、しっかりと分析をすることですかね。例えばカバーリングや、読みの部分、周りを声で動かすところを磨いて、アピールすることが評価につながり、自分のポジションをつかんでいきました。あとはうまくいったこと、いかなかったことを整理して、外国人が出た時はこうで、失点率はこうでとノートに書いていました。プロ2年目くらいからはそのとったノートをもとに、契約交渉の席で使ったりもしていましたね。
スタジアムを埋め尽くす、バットマンお⾯
“バットマン”として宮本の名前を広めた⽇韓W杯 【Photo by Martin Rose/Bongarts/Getty Images】
まずは……。2002年の日韓ワールドカップ(W杯)を終えた直後の、ガンバでのリーグ戦です。これまでとの雰囲気の違いもそうなのですが、クラブから配られた僕の顔のお面を持って、たくさんの人がスタジアムに来てくれました。ある程度予想はしていましたが、自分のファンからサッカーのファンになってもらえるように、しっかりとプレーを見せていかなければと感じる瞬間でしたね。
――お話のとおり、宮本さんの人気に火をつけたのは、日韓W杯の舞台で見せた“バットマン”姿でした。
W杯1週間前の練習試合で相手の肘が顔に当たってしまって、けが自体は鼻が折れたくらいでしたが、フェイスガードをつけることを認めてもらえなければW杯には出場できなかったかもしれません。最初はただのベージュで、「それだと弱々しいから黒く塗ったら?」とGKコーチの方から言われて、ほかの人にも手伝ってもらいながら自分で黒く塗りました。それを海外メディアのみなさんまで「バットマンだ!」と取り上げてくれた。おかげで、たくさんの人にも覚えてもらうことができましたね。マジックが汗で滲んで、顔についたりもしましたけれど。
――これが3位ですね。続いて2位は?
2位は2009年のヴィッセル神戸時代に決めた、オーバーヘッドのゴールです。
左にフリーの選手が見えたので、パスを出し、そこからクロスを受けようと中に入ったら、思いのほか後ろにボールが来たんです。その瞬間、同じような場面でゴールを背にしたまま何もできず、クリアされてしまった5シーズンくらい前の試合のことが頭をよぎりました。帰りのバスで、「倒れて打てばよかったのか」と考えたことを思い出したので、その試合ではジャンプしながら胸トラップしたら、すごく良い場所に上がったのでオーバーヘッドしかないと。「練習でやれないことは、本番ではできない」というコーチもいますが、人生1回もトライしたことないようなプレーでした。Jリーグでも、その年のベストゴールに選ばれましたし、自分でも驚いたゴールですね。
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