“神様”ジーコと40歳でのハットトリック 記録と記憶に残る「ベスト3ゲーム」とは?
Jリーグ開幕戦のハットトリックは今も語り継がれている 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】
来日当時、JSL(日本サッカーリーグ)の2部を戦っていた住友金属工業蹴球団。のちの鹿島アントラーズは、ジーコ氏がたたき込んだプロの技術と精神で、瞬く間に常勝軍団へと成長を遂げた。クラブに色濃く根付いた“ジーコスピリット”は、日本サッカーの発展にも大きく貢献した。
「もっと国内リーグを、若手選手が育つ場所に」
黎明期からのJリーグを知るジーコ氏は、これまでの成果に言及する一方で、現状の課題にも警笛を鳴らす。
自身のベストプレーの思い出とともに、Jリーグの30年での功績とこれからへの期待について語ってもらった。
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日本で現役復帰を決めた理由
日本にはトヨタカップなどで3回ほど訪れたことがありました。その時の日本のみなさんとの触れ合いが、とても良い記憶として残っていたからです。
特に日本人の3つの国民性に強く惹かれました。1つは意思決定力があること、2つめは規律があること、3つめは、それらをしっかりと守ろうとすること。
お話をいただいたときに、この国民性や心とともに、自分が携わって日本のサッカーを一緒に作り上げられれば、もっともっと盛り上げることができるはずだと思いました。
――1993年のJリーグ開幕初年度、鹿島アントラーズの選手としてピッチに立ちました。Jリーグで特に印象に残っている思い出を3つ教えていただけますか?
真っ先に思い浮かぶのは、5-0で勝利した、名古屋グランパスとの開幕戦ですね。私たちはJリーグのオリジナル10で最後の1枠に入ったチームで、なおかつJSL(日本サッカーリーグ)で2部だったので前評判が高いとは言えませんでした。だからこそ、鹿島アントラーズというチームを、鹿島という地域を、日本中に広めたいと思っていたのです。サッカー人生の中でも忘れられない試合になりました。
――開幕戦ではハットトリックという離れ技を演じました。当時すでに40歳。開幕戦に向けて、どのようにコンディションを合わせていったのでしょうか。
特別な調整をしたわけではありません。当時の私は宮本征勝監督をサポートしてチーム全体の指導をする立場でもあったので、自分のコンディションを最優先にするわけにもいかなかったのです。膝の調子も悪かったですし、あまり追い込むとケガをしてしまう可能性もある。だから、“ちょうどよく”調整しようと心がけていたんです。
――そ、そうだったのですか……。
確かに、あの日は私が3ゴールを決められましたが、個人の力というよりチームの力が大きかったと思います。開幕までの準備期間で、チームとしての共通理解がしっかりとできあがっていた。私はただ、完成されたチームに融合し、与えられた役割をこなしただけでした。
第1号ハットトリックと初タイトル
右足を豪快に振り抜いてゴールネットを揺らした 【Photo by Etsuo Hara/Getty Images】
1点目は、サントスとアルシンドとのパス交換からDFに当たったこぼれ球をペナルティーエリアの外から振り抜きました。スピードもコースも良かったので、ゴールキーパーはノーチャンスだったのではないかなと思います。
2点目のフリーキックに関しては、左45度で最も得意とする位置からでした。私は日ごろから「シュートはゴールにパスするつもりで打て」と話していますが、その言葉通りに狙ったところにボールを送り込めました。
3点目に関しては、中央でキープしてから左サイドに展開し、ドリブルでかわしたアルシンドからのクロスに対して、うまく相手ディフェンスの前に入って決めきることができました。
開幕初年度の、1stステージ(サントリーシリーズ)で、浦和レッズに勝利して、優勝を決めた試合です。わたしはケガで出場できませんでしたが、ピッチ外でチームの勝利を願いながらサポートしていました。Jリーグで初めて獲得したタイトルだったので、とても印象に残っています。
――3つめのエピソードを教えてください。
現役最終戦となった1994年の1stステージのジュビロ磐田戦ですね。試合後のセレモニーが終わった後、アントラーズのサポーターだけでなく、対戦相手であるジュビロサポーターも「ジーコ」コールをしてくれたのです。とても温かい気持ちでグランドを1周したことを、今でも鮮明に覚えています。
ジュビロ磐田との“引退試合”では両チームから「ジーコ」コールが贈られた 【写真:築田純/アフロスポーツ】