村田諒太氏語るボクサー人生 必要だった引退会見、ミドル級の矜持、未完成も満足の理由
ミドル級で数々の偉業を成し遂げた村田氏。笑顔で自らのボクシング人生を振り返った 【写真:花田裕次郎】
「必要なものだったと、今になると思いますね」
今年3月の現役引退記者会見の村田氏。朗らかな笑顔が印象的だった 【写真は共同】
村田さんが「あの日」と語るのは、引退発表の記者会見を行った3月28日。東京都内のホテルにしつらえられた会見場には、報道陣のみならず、スポンサー企業、テレビ局、広告代理店といった、これまで村田さんの挑戦を支えてきた多くの関係者たちも詰めかけ、新たな門出を祝う場ともなった。
「会見を開く前は、できるだけ大げさにしないでほしいと思っていたんです。SNSとかで発表すればいいじゃないかと」。実際、2月下旬に同じホテルで行われたボクシング年間表彰式に出席した際、記者に囲まれた村田さんは「まだ発表できていないだけで、僕の中ではあの試合(ゴロフキン戦)が最後だと思っている」とさらっと語り、メディアでも「事実上の引退表明」と一斉に報じられた。
ただ、功成り名を遂げた者にはその実績にふさわしい舞台というものがある。会見の場を用意した帝拳ジムからは、過去に10人を超える世界チャンピオンが出ているが、実は誰でもその場を用意してもらえるわけではない。最近ではWBC世界スーパーバンタム級王者として日本人で初めてラスベガスで防衛に成功した西岡利晃さん、国内最高記録にあと1つと迫る12連続防衛を果たしたWBC世界バンタム級王者の山中慎介さんだけだ。
先輩2人のときにも増して華やかな場となった村田さんの会見は、その足跡にふさわしいものだった。当初は照れくささもあったようだが、「(ああいう機会が)必要なものだったと、今になると思いますね。すごくありがたかった」。ゴロフキン戦からもうすぐ丸1年がたとうしていた。この間、再びリングに上がる可能性はほぼゼロと自分でも分かっていたが、それでも現役生活への未練を完全に断ち切っていたわけではなかった。引退会見は、村田さんにとっても次の人生へ向かうために必要な〝儀式〟だったのだろう。
持って生まれたフィジカルと信じ続けた可能性
なぜ、村田さんはミドル級で頂点に立つことができたのか。最大の武器といわれたフィジカルは間違いなくその一つだ。走り込みキャンプに行けば、自分より軽量の選手よりも速く走り、リング上では重厚なプレスで欧米の選手たちを後ずさりさせた。
もう一つ加えるならば、周囲の言葉に惑わされず、自分の可能性を信じたことだ。
「日本のよくないところだと思うんですけど、『ミドル級では日本人は勝てない』とずっと言われてきた。ある世界チャンピオンの昔話として、体が大きくならないように子供の頃から食事を少なくして体重をキープしていたという話を聞いたことがあります。その努力自体は素晴らしいことなんだろうけど、その前提が『日本人は軽量級じゃないと勝てない』ということだとしたら、僕はそういうふうに物事を考えるのはよくないと思う」
高校時代からインターハイ優勝など活躍し、国内では敵なしだった村田さんも「国内では強いけどミドル級だからなあ……」と言う周囲の声を聞き続けてきた。ミドル級の層が厚いのは事実だ。村田さんも国際大会ではなかなか成績を残せず、次第に自信を失っていった。著書「折れない自分をつくる 闘う心」にも書いているように、出場権を逃した2008年北京五輪予選のときは酒やパチンコに逃げ、戦う前から諦めていたという。当時の心境を「『どうせ俺なんて』と卑屈になり、本気を出すことから逃げていた」と記している。
しかし、11年の世界選手権で銀メダルを獲得したことで大きく道は開けた。トーナメントの組み合わせは代表チームの仲間にも同情されるような厳しいものだったが、2回戦で世界選手権2連覇中だったウズベキスタン選手を破った大金星は、村田さんのボクサー人生のターニングポイントとなった。この大会で決勝まで勝ち進み、当時の日本のアマチュアボクシング史上最高成績となる銀メダルを獲得。翌年のロンドン五輪金メダルへとつながったのである。
「開き直っていったら勝てた。あの勝利で自分でもいけるんだと思えた。あそこで結果を出すことができたという自信が、ミドル級でもやれると思わせてくれたと思います」