連載:愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方

フロンターレ×地域密着の原点 武田信平が社長就任時に思い描いた絵

原田大輔

武田信平(左)と中村憲剛(右)は、いわばクラブの礎を築いた同志 【(C)川崎フロンターレ】

 武田は2000年12月に川崎フロンターレの社長に就任すると、退任する2015年4月まで15年間にもわたって同職を務めた。今や60クラブに増えたJリーグ全体を見ても、それだけの長期にわたり、クラブのトップを担ってきた人物はいない。その15年間で武田が着手、実施した事業や施策は、それこそ数え切れない。

 なかでも驚かされるのが、就任から1年も満たない時期に、今日の川崎フロンターレの基盤・基軸となる方針を打ち出していることだった。川崎フロンターレの取締役会には、富士通本体の副社長や取締役がボードメンバーとして加わっているが、2001年9月に行われた取締役会で、地域密着型クラブを目指すという骨格を提案し、承認されたのである。

 そのうえで、武田がまず着手したのが、企業色を消すことだった。

地域へ根ざすために「富士通」の色を薄める

2004年のJ2を圧倒的な強さで制した川崎。翌年、エンブレムからFUJITSUの企業名を外した 【(C)J.LEAGUE】

「町の人から『富士通に資金を出してもらってチームを強化すればいい』と言われたように、当時は富士通の色がまだまだ強くありました。川崎市に富士通の工場があり、当時は1万5000人くらい働いていた。川崎フロンターレを応援してもらう人たちとして、その彼らだけをターゲットにすればいいのか。それでは地域密着はもちろん、それ以上の広がりはありません。やはり地元の企業や商店、地元の人たちを中心に、もっと多くの人たちに応援してもらえるクラブにならなければ、川崎フロンターレが存続していくことはできないと考えました」

 幾重にも絡まったひもを一つひとつほどいていくかのように、武田は順序立てて筋道を模索していった。

「地元に応援してもらうには、地元に根づかなければならない。その活動を通して、川崎フロンターレのファン・サポーター、そして“シンパ”を増やしていく必要がありました。『スポーツで、もっと、幸せな国へ。』を現実のものにするために、地域密着を推し進め、地域に愛されるクラブへと生まれ変わっていく。それを推し進めるということは、富士通の色を消すことでもありました。これは口で言うと簡単なことに聞こえるかもしれませんが、実際は大変なことでした」

 武田が考えたのが、富士通が100%出資している子会社からの脱却だった。他からの資本を募り、川崎市のクラブ、自分たちのクラブという意識を持ってもらえれば、地域に根ざしたサッカークラブへの一歩を踏むことができる。それを実行に移すためには、まず親会社である富士通を説得しなければならなかった。

「スポーツクラブが長期的に存続していくためには、地元の支持・支援が必須で、まずは地域密着型のクラブを作り、さらにそれを推進しなければならないと訴えました。そのために富士通色を薄め、行政、地元企業、市民が参加する体制作りを図っていく必要がある、と。公共性を強調することにより、支援を受けやすい環境を作り、川崎フロンターレが市民の共通財産であることを示す。また、フロンターレは企業だけではなく、一人ひとりのものなんだという意識を持ってもらうことで、愛着や愛情が生まれていくはずだとも訴えました」

「自治体は“一番風呂”には入れない」

 同時に、社名の変更も依頼した。地元の人々に、フロンターレが市民のクラブであることを認識してもらうために、富士通の文字を社名からなくし、「株式会社川崎フロンターレ」とすることを提案したのである。その後、社名を富士通川崎スポーツ・マネジメント株式会社から株式会社川崎フロンターレに変更することを発表したのは、2002年5月。また、2004年11月には、エンブレムからも「FUJITSU」の文字をなくすことを発表し、より地域に根ざしたスポーツクラブとして活動していくことをアピールした。

「この決断には、ファン・サポーターからもフロンターレが本気で地域に根ざそうとする姿勢が見えるとの反響をもらいました」

 武田は、そのすべてに理解を示してくれた富士通に対して感謝を言葉にする。

「他からの資本を募り、100%の子会社ではなくなったとはいえ、富士通にはその都度、その都度、助けてもらったので心から感謝しています。だからこそ、誠実に対応していかなければいけないと肝に銘じていました。親である富士通はITで社会に貢献し、子である川崎フロンターレはスポーツで社会に貢献していく。やり方や歩く道こそ違いますが、目指すところや思いは同じ。だから感謝する一方で、遠慮することはないと思って取り組むことができました」

 そうした方針が固まったとき、武田が最初に相談を持ちかけたのが、ホームタウンである川崎市だった。

 2001年当時、川崎市の人口は約130万人、活動拠点である等々力陸上競技場がある中原区だけでも約20万人が住んでいた。川崎市に出資してもらえることになれば、民間企業も資本参加しやすく、生活する人たちにも市民のクラブという印象を強く抱いてもらえることになる。

 武田は、その年の10月に川崎市長に当選したばかりの阿部孝夫を訪ねた。

 政治家になる以前、いくつもの大学で教授を務めていた阿部市長が、『スポーツを活用した地域振興の将来』という論文を発表していたことも調べていた。また、当選してすぐに『音楽とスポーツのまち』とうたい、スポーツ文化都市を目指していることも把握していた。スポーツに理解のある阿部市長ならば、力を貸してもらえると考えたのである。

 ところが、返ってきたのは厳しい言葉だった。

「阿部さんには、『自治体は“一番風呂”には入れないものなんです』と言われてしまいました。川崎市に出資してもらえれば、民間企業も出資しやすくなるだろうと考えていたのですが、これが実は逆だった。『自治体が出資しやすい環境を整えてほしい』と言われましたよ。地元の民間企業が川崎フロンターレを応援している状況があれば、自治体としても出資しやすくなると。出資をスムーズに実行するために、行政としてサポートはするので、先に民間からの出資と支持を得てほしい、と提案されました」

 実際、川崎市は口だけではなく、一緒になって手も足も動かしてくれた。

「当時の経済局の課長さんが一緒になって動いてくれました。川崎市で活動する各業界の会合がいついつにあるとの情報を教えてくれ、その都度、一緒に行きましょうと、ともに足を運んでくれました。そのたびに私は出資の趣意書を配って、説明して回りました」

 武田は自らの足を使って、粘り強く、根気強く顔を出し続け、そして協力を、支援を呼びかけていった。

「我々は市民クラブとして、川崎の町の活性化に貢献したいんです。みなさんのお力添えを、ぜひお願いします!」

「武田さんはどの会合に行っても必ずいるね」

社長自ら地域、ファンに歩み寄っていった 【(C)川崎フロンターレ】

 地元の企業や、商店街への働きかけも同様だった。武田は社員にリサーチすると、大師商店街に店を構え、川崎市商店街連合会青年部の部長を務めている故・石渡俊行に会うことを提案された。石渡はクラブが創設して間もないころから応援してくれている、数少ない理解者だった。武田は大師商店街まで足を運ぶと、ときには酒を酌み交わしながら、石渡と意見交換をした。たとえば、石渡はすでに自分の住む商店街を川崎フロンターレの旗で飾ってくれていたが、川崎市内のすべての商店街を川崎フロンターレのタペストリーで埋めつくしてはどうか、という提案をしてくれた。これは、時間をかけながら実行に移し、実現した事業だった。

「もちろん、社員も各地を回り、各方面に顔を出してくれていましたが、やっぱり社長である自分が行って挨拶をしなければダメだと考えていました。それが信頼を勝ち得る一つの道だと思っていたからです。商店街の人たちもそうですが、どこの誰だかわからない人間がいきなりやってきて、『川崎フロンターレです。応援・支援してください』と言っても、そんなところにいきなりお金は出せませんよね。みなさんが汗水流して働いて稼いだお金で支援してもらうのだから、それには社長である自分が顔を出して、頭を下げることが大切なんですよ」

 武田は商店街や組合をはじめ、地域の団体の新年会や総会に顔を出していただけでなく、会合のあとに行われる飲み会にも必ずついていった。

「川崎市の商店街といっても、規模は大小ありました。でも、大きい小さいに関係なく、呼んでもらえたら全部に顔を出していました。最初のうちは、こちらに対して馴染みがないから警戒心があって、よそよそしい対応をされることもありました。でも、不思議なもので何回も顔を出していると、だんだん会話が弾むようになる。そうすると、二次会にも誘ってもらえるようになって、二次会に行くと、三次会、さらには次の機会にも声をかけてもらえるようになる。そこではずっと川崎フロンターレの宣伝をしているわけではなく、よもやま話をしたり、各商店街の話を聞いたりと、話題はさまざまでした。それがスポーツクラブの経営の役に立つかと言われたら、全部が全部、生かせるわけではない。それでも知ることに損はないし、なにより親しみを感じてもらうことが大切だったんです。のちにさまざまな方から『武田さんはどの会合に行っても必ずいるね』と言われました。長く顔を出し続けていれば親しみが湧くし、絆が生まれ、強まっていくのだと思います」

 オセロの石を一つひとつひっくり返していくように、徐々に盤面は変わっていった。武田よりも古くからクラブで働いていたスタッフの天野春果のように、以前から地域に根ざした活動を精力的に行っていた人間もいたが、武田の姿勢にならうように、他の社員たちも積極的に町へと出ていくようになった。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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