連載:愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方

フロンターレ×地域密着の原点 武田信平が社長就任時に思い描いた絵

原田大輔

地道な活動が実る

人気クラブになった今も、積極的な地域への貢献活動は続いている 【(C)川崎フロンターレ】

 地道な活動を続けた結果、2002年には川崎市とともに30数社が名乗りを挙げてくれ、増資に成功した。2003年には、川崎フロンターレ持株会を設立し、企業だけでなく、個人にも出資を募った。一人ひとりの市民にも、川崎フロンターレが自分たちのものだと思ってもらおうと考えたのである。募集をかけると、川崎市民はもちろんのこと、地方の川崎出身者も含めて400名以上の会員が集まり、3300万円(当時)の出資に成功した。

 同じ2003年、川崎フロンターレ市民後援会と川崎フロンターレファンクラブが統合され、「川崎フロンターレ後援会」ができた。その会長に、歴代の川崎市長が名を連ねていることも、一つの成果と言えるだろう。2004年9月には、川崎市は川崎フロンターレの地域密着活動を高く評価して「川崎市ホームタウンスポーツ推進パートナー」を制定した。これは、スポーツ団体や個人を活用してホームタウンスポーツの振興と川崎のイメージアップを図ることを狙いとした制度であり、地域振興にスポーツを活用しようとする自治体の先進的な取り組みの例だった。武田が社長に就任したときに思い描いていた形が、一つ実現したのである。

「当時の阿部市長をはじめ、副市長を務められていた砂田慎治さんにも多大なるバックアップをしてもらいました。阿部市長は、市内での会合など機会があるごとに『フロンターレを応援してください』と宣伝してくれました。たとえば、川崎市技能職団体連絡協議会は、これに応える形で会がチケットを買って会員がスタジアムに応援に行く、応援デーを毎年催してくれるようになりました。最も変化があったのはお膝元の市職員でしょう。最初は、営利企業には支援できないといって顔を向けてくれませんでしたが、市長がフロンターレの支援を大々的に表明すると徐々に対応が変わってきて、火の用心や献血のポスターに選手を採用したり、イベント当日にはマスコットのふろん太を賑やかしのために呼んでくれたりするようになったんです。私は、かねてからフロンターレをもっと使って、市の行事やPRに役立ててくださいとお願いしていたのですが、それが形になりはじめたということです。それから、阿部市長は等々力にも足繁く観戦に訪れてくれました。間に合えば後半からでも駆けつけることもしばしばで、自治体の首長で、スタジアムに応援に来た回数は誰にも負けないのではないでしょうか。応援の姿勢を行動で示してくれたのだと思います。そして砂田さんには、市と関係する案件があるたびに相談に行って、どのように進めればスムーズに解決するのか、アドバイスをもらっていました。砂田さんはいつの間にか根回しをしてくれていて、いつも担当部署とは円滑に物事を進めることができるんです。他にも、川崎の重鎮でもある元参議院議員の斎藤文夫さんには、一肌も二肌も脱いでもらいました。斎藤さんの協力と尽力がなければ、等々力のメインスタンド改築は成しえなかったと思います。川崎フロンターレのために協力してくれた方の名前を挙げればキリがないですよ」

時間を惜しまず、足を使い、愛されるクラブへ

社長への親しみが、フロンターレへの親しみにつながった 【(C)川崎フロンターレ】

 時間を惜しまず、足を使い、少しずつ、少しずつ川崎の町で信頼を勝ち獲ってきた武田がしみじみと言う。

「私自身がやってきたことに、“教科書”的なものがあるわけではありません。でも、一つなにかがあるとすれば、私に親しみを感じてもらうことはイコール、フロンターレに親しみを感じてもらうことだと思っていました。熱意や誠意というのは、当たり前のことかもしれませんが、実はこれが一番、大切なのではないかと思います。自分たちが熱意を示さずに、応援してもらえるわけはないですよね」

 徐々にその輪が広がっていく感覚があった。

「商店街でのイベントにしても、最初は選手を派遣したって、3〜4人しか人が集まらないこともありました。でも、商店街の人たちもそれでは申し訳ないということで、頑張って人を集める努力をしてくれるようになりました。それで人が集まるようになれば、握手会をしましょう、撮影会をしましょうと、だんだんと自分たちが参加することをありがたがってくれるようになる。同時にフロンターレが強くなり、チームや選手の名前が知られるようになると、徐々にやってきたことが一気に進み、好転していきました」

 川崎フロンターレが地域のイベントに参加した回数は、気づけば年間120回を超えるようになっていた。1年が365日だから、単純計算しても3日に一度は地域の活動に参加していたことになる。

 そうした地道な活動が実を結んできたと、武田自身も感じるようになったのは、J2リーグで優勝した2004年ごろからだった。

 J2リーグに降格した2001年、3784人まで落ちこんだリーグ戦の平均観客動員数は、2004年には9148人に増えていた。再びJ1リーグを戦うことになった2005年は1万3658人と、ついに大台の1万人を突破した。

 かくして、川崎フロンターレは、徐々に川崎の町に、川崎に住む人たちに愛されるクラブになっていった。そして、その背景には事業と二軸を担う“強化”もうまく回りはじめたことがあった。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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