「絶対に等々力を満員にしよう」 伊藤宏樹が中村憲剛とかわしたある日の約束
川崎一筋13年で国内公式戦通算495試合に出場した伊藤宏樹。その数字以上にクラブにとっては重要な人材だった 【(C)J.LEAGUE】
2001年に川崎フロンターレに加入した伊藤宏樹の本音と言えるだろう。
「スタジアムには全然、観客がいなかった」
2001年にJ2リーグを戦ったスタジアムを端的に表した言葉と言えるだろう。
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そこには伝統もなければ、継続性もない。今日の川崎フロンターレからは想像もできない状況だった。しかし、大卒新人だった伊藤は、逆にチャンスととらえることにした。
「一から競争できる、一から勝負できると思いました」
そう語るように、2001年のJ2リーグ開幕戦からスタメンで出場すると、いきなりレギュラーとして存在感を示した。チームは成績不振から、第20節のヴァンフォーレ甲府戦を終えて、堀井美晴監督から石崎信弘監督に指揮権を移したが、その後も伊藤はピッチに立ち続け、出場停止だった最終節を除く43試合にフル出場した。
J2リーグに降格したことによる集客の影響も大きかった。平均観客動員数は、前年の7439人から3784人へと落ちこんだ。
「特に雨が降った試合や、負けた次の試合は(観客の少なさが)顕著でした。ただ、僕は加入したときの現実がそれだったので、違和感を持つことなく受け入れていました」
舞台はJ1リーグではなく、J2リーグ。経験や偏見がないことから、正直、「こんなものなのだろう」と思っていた。それでもホームで結果を出し続けていけば、自然と客足は増えていくはずだと信じていた。
「集客については、事業部の人たちが一生懸命やってくれていたので、僕たち選手にできることは、ホームで勝って、また次の試合に来てもらうことだと思っていた。むしろ、この現状が“底”で、クラブ的には“伸びしろ”しかないと思っていたので、地域貢献活動にしろ、ファンサービスにしろ、事業部の人たちと徐々にいろいろなことをやっていこうと、ポジティブに考えていました」
次の“担い手”として
クラブにとって、試合に出場している新人選手は、次の“担い手”として適任だった。
チーム広報として長年、選手に寄り添ってきた熊谷直人は、伊藤を引っ張り出し、プロモーションやイベントに参加させたのである。プロモーション、広報という両者の視点から、クラブの戦略が垣間見える起用と施策だった。
「なにも知識がなく、色のついていない新人だったので染めやすかったんだと思います」そう言って伊藤は笑うが、もともと周囲を見る力も備わっていた。J2リーグに降格したとはいえ、当時はJリーグが人気を誇っていたJリーグバブルの名残を醸し出している選手もいた。そのため、チーム内には、地域貢献活動やファンサービスに積極的ではない選手のほうが圧倒的多数を占めていた。
そうしたなかで、イベントに参加する機会の多かった伊藤は、自然とクラブスタッフと会話する場面も増え、彼らの考えに共感していった。事業部の影響も強く、ファン・サポーターに向き合うようになっていった。
伊藤がルーキーだった時代から接してきた広報の熊谷が、当時の印象を語る。
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