連載:愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方

「川崎フロンターレってなに?」 元社長・武田信平が回顧するクラブ黎明期

原田大輔

2000年かJクラブ最長となる約15年間に渡って川崎フロンターレの社長を務めた武田氏。強い覚悟と信念を持ってクラブの礎を築いた 【(C)J.LEAGUE】

 地域の新年会や賀詞交換会に顔を出すたびに、武田信平は愕然とした。

「川崎フロンターレです。よろしくお願いします」

 返ってくるのは、決まってつれない言葉だった。

「川崎フロンターレってなに?」

「川崎フロンターレはなんのチームなの?」
 川崎フロンターレがサッカークラブだと認知されていないどころか、川崎フロンターレという名前すらほとんど知られていなかった。

 また、クラブの名称を知り、競技を把握していたとしても反応は手厳しかった。

「どうせお前たちもすぐにこの町から出ていくんだろう?」

「親会社に資金を出してもらって補強してもらいなよ」

「弱いチームだよね。強くなったら応援してあげるよ」

 世の中が新世紀の幕開けに希望を抱いていた2001年初頭だった。手応えを得られず、肩を落として家路につくなか、武田は拳を握りしめながら思っていた。

「強くなってから応援してほしいのではなくて、弱いからこそ、応援してほしいんだ」と……。

信じて続けた活動

2001年3月24日・京都戦に臨む選手たち。バックスタンドのサポーターはまばらだ 【写真:アフロスポーツ】

 あれから20年以上もの年月が過ぎた。今は武田自身もクラブを離れ、川崎フロンターレを取り巻く環境も様変わりした。武田は当時を懐かしむように、苦い記憶を呼び覚ます。

「少しでも多くの人に、スタジアムへ足を運んでもらおうと、試合前日に川崎市内の駅前でチラシを配っても、まったく受け取ってもらえませんでした。50人、100人にチラシを差し出して、一人が受け取ってくれるかどうか。それでも川崎フロンターレを知ってもらうためには、やめるわけにはいかなかった。チラシを配ってまで応援してもらいたいという我々の思いに、熱意を感じてくれる人がいるかもしれない。積極的に地域の新年会や賀詞交換会、各団体の総会に参加していたのも同様でした。顔を出し続けることで我々の熱意を感じてもらえるようになるかもしれない。それには、会社のトップである自分が足を運び、顔を覚えてもらわなければいけないと考えていました。地域の人たちにとっても、クラブの社員にとっても、社長である自分がチラシを配り、地域の会合に顔を出すことに意味があると信じて続けてきました」

 Jリーグが実施しているJリーグスタジアム観戦者調査では、2010年から2019年まで10年連続で地域貢献度1位に選ばれた。クラブ創設から、実に8度も2位や準優勝に泣いたチームは、2017年の明治安田生命J1リーグ優勝を皮切りに、4度のリーグ制覇を達成。ここ6年で6つの星をユニフォームに刻んだ。今や名実ともにJリーグを牽引するクラブになった川崎フロンターレだが、決して創設当初から人気、実力のあるチームだったわけではない。

絶望を味わっていた最中、51歳での社長就任

川崎は1999年に初のJ1昇格を果たしたが…… 【(C)川崎フロンターレ】

 川崎フロンターレが地域から愛され、かつタイトルを獲得できるクラブへと歩み出す大きな契機は、クラブとしての窮地、むしろどん底ともいえる2000年にあった。

 富士通サッカー部を前身とする川崎フロンターレは、1993年のJリーグ開幕から遅れること3年、1996年にJリーグ参入を表明した。1997年にJリーグ準会員となり、川崎フロンターレとしてJリーグ昇格を目指してJFL(ジャパンフットボールリーグ)を戦ったが、勝ち点1差で3位に終わり、初年度でのJリーグ昇格を逃した。

 1998年はJFLで2位になり、アビスパ福岡とのJ1参入決定戦に挑んだが、延長Vゴールの末、2-3で敗れて再び昇格を逃した。

 1999年は、この年からスタートしたJ2リーグを戦うと、ついに優勝。3度目の正直ならぬ、3回目の挑戦にして、悲願のJ1リーグ昇格を勝ち獲った。

 しかし2000年は、ようやくたどり着いたJ1リーグの舞台だったが、16チーム中16位の最下位に終わり、わずか1年で2部のカテゴリーに舞い戻ることになった。

 武田が川崎フロンターレの社長に就任したのは、J2リーグ降格が決まった2000年11月18日から約1カ月後の12月20日―。まさにクラブが希望から一転し、絶望を味わっていた最中だった。当時は現在の「株式会社川崎フロンターレ」ではなく、社名変更前だったから、「富士通川崎スポーツ・マネジメント株式会社」の代表取締役社長に就任と記すのが正しいだろう。

「富士通の本社に呼ばれ、そこで川崎フロンターレの社長を任せたいと内示を受けました。体制を変えるのは、クラブ内も円滑に運営されているとは言いがたく、組織自体を立て直してほしいということが一つ。もう一つは、J2リーグへの降格が決定していたように、チームの成績が振るわなかったことが原因だと思いました。私が指名されたのは、自分がサッカー経験者で、富士通サッカー部に在籍していたことから適任だと考えてくれたのでしょう」

「衰退させるわけにはいかない」という思いで

 川崎フロンターレが初めてJ1リーグを戦った2000年、チームはシーズン中に2度も監督交代を行っている。成績だけでなく、フロントを含めたクラブ内が一枚岩になり切れなかったことも、J2リーグ降格に起因していた。それは当時の新聞などでも取り沙汰され、そのときはサッカー界から離れていた武田の耳にも届いていた。

「1991年にJリーグが創設され、各企業のサッカー部がプロ化に舵を切っていったとき、富士通でもサッカー部を存続させるべきか、それとも廃部にするべきかを検討するようになっていました。私自身は川崎フロンターレの創設には関係していませんでしたが、自分の二つ年下で、富士通のサッカー部でともに過ごした小浜誠二くんが、Jリーグを目指すクラブとして、富士通サッカー部を存続させようと、会社に掛け合い、奔走している姿を見ていました。その過程で、小浜くんから相談されたこともありました。自分も背中を押した一人として、彼が存続させたクラブを衰退させるわけにはいかないと思いました」

 2000年の川崎フロンターレは、前年に監督としてチームをJ1リーグ昇格へと導いた松本育夫が社長、クラブ創設に尽力した小浜が副社長を務めていた。J2リーグ降格の責任を取る形で、二人の退任が決まり、後任として白羽の矢が立ったのが武田だった。

「わかりました。やります」

 富士通の本社に呼ばれたその日、武田はその場で社長就任を引き受けた。当時の年齢は51歳。関連会社の社長とはいえ、前例のない若さだった。

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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