連載:愛されて、勝つ 川崎フロンターレ「365日まちクラブ」の作り方

「川崎フロンターレってなに?」 元社長・武田信平が回顧するクラブ黎明期

原田大輔

「やるなら片道切符」の覚悟と姿勢

武田は降格したクラブのかじ取りを担うことになった 【(C)川崎フロンターレ】

 1949年に宮城県亘理郡亘理町に生まれた武田は、中学からサッカーを始めると、サイドバックとして高校、大学とプレーを続けた。1972年に富士通に入社すると、サッカー部に所属する。その年、JSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格したチームは過渡期にあり、翌年には選手として日本代表で活躍した八重樫茂生を監督に迎え、チームの強化を図っていた。「選手としては芽が出なかった」という武田は、その八重樫監督から「選手は諦めろ。その代わり、マネージャーとしてチームを支えてくれ」と命を受け、裏方に回る。そこから富士通の沼津工場に転勤する1982年まで、マネージャーや運営委員を務めた。

 サッカー部を離れてからは社業に邁進し、電算機事業本部ソフトウェア管理部工務課長、ソフトウェア事業本部ビジネス推進統括部長など要職を務めてきた。それが関連会社、しかもサッカークラブの社長に就くとなれば、出世の道から大きく逸れることになる。そのため上司や周囲からは、少なからず反対する声もあった。それでも武田は、即断即決で、社長を引き受けた。前身である富士通サッカー部への思いや、後輩の小浜が並々ならぬ努力をして川崎フロンターレを創設し、サッカー部を存続させたことを知っていたからだろう。

「一度、その部署を出てしまえば、戻れないことはわかっていました。それなので『やるなら片道切符』だと覚悟を決めました」

 武田のそうした覚悟や姿勢もまた、人を引きつけたのだろう。社長に就任した2000 年当時のクラブが置かれていた状況を、先ほどは窮地、どん底と表現したが、武田は決してそう思ってはいなかった。

「たしかに、引き受けた時期はどん底、もしくは最悪だったのかもしれない。でも、一方でこれ以上、下がることはないとも思っていました。あとは上がるだけだろうと」

低い人気、知名度のなかで

社長自らファン感の舞台に立ったこともある 【(C)川崎フロンターレ】

「実際、いざフロンターレに行ってみたらそれは大変だったのですが、受けたときには、覚悟はしていたもののあまり深くは考えていませんでした。それに、行けばなんとかなるだろうと思っていたところもありました」

 そう言って武田は当時を振り返ったが、想像していた以上に川崎フロンターレが置かれていた環境や状況、事態は深刻だった。

 川崎フロンターレが再びJ2リーグを戦うことになった2001年、ヴァンフォーレ甲府をホームに迎えたリーグ開幕戦の入場者数はわずか「3945人」だった。その年の1試合平均観客動員数も3784人と、前年の7439人を大きく下回り、著しく落ちこんだ。

 新型コロナウイルス感染症が世界中に蔓延し、それまでの日常が失われる前だった2019年の1試合平均観客動員数が、2万3272人だったことを考えると、当時の人気や知名度がいかに低かったかは一目瞭然だ。

「2万5000人収容のスタジアムに、平均で4000人弱しか来てもらえない。雨の日の試合になると、1000人ちょっとしか観客がいないこともありました。だから、『フロンターレの試合はいつ行ってもすぐに入れる』と評判になっていたくらいでした」

 武田が挙げたその試合とは、2001年9月10日、J2リーグ第31節の水戸ホーリーホック戦だ。天候は雨だったとはいえ、シーズン終盤に差し掛かかろうかという試合で、訪れた観客は1169人。声援よりも雨音のほうが聞こえてきそうなほど、本拠地・等々力陸上競技場のスタンドは閑散としていた。

 川崎の町に出ても、知名度の低さや人気のなさを痛感させられた。

“プロスポーツ不毛の地”だった川崎

東京ヴェルディも川崎を去っていったチームの一つ 【写真:山田真市/アフロ】

 クラブの社長に就任すると同時に、地域の新年会や賀詞交換会があると聞けば、時間を惜しまず参加した。5月になり、各団体の総会があると知れば、労をいとわず顔を出した。そのたびに、「川崎フロンターレ」と名乗っても、まったく見向きもされなかった。ようやくクラブの存在を知っている人に遭遇したとしても、応援してもらえる雰囲気や空気は微塵もなかった。

 そこには、“プロスポーツ不毛の地”と呼ばれていた川崎の歴史も密接に関係していた。

 古くはプロ野球の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)やロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)が川崎を拠点としていたが、時代とともに町から撤退した。1993年にJリーグが開幕し、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)が川崎市をホームタウンに活動していたが、2000年2月には東京都への移転を発表し、翌2001年から呼称を東京ヴェルディ1969に変更した。ホームスタジアムも調布市にある東京スタジアム(現・味の素スタジアム)に移し、まさに川崎の町から出ていった。

 川崎の町にとって、市民にとって、プロスポーツ、さらにはサッカークラブに対する印象は最悪だったと言っていい。

「お前たちも、成績がよくなれば、どこかへ移るんだろう」

「親会社である富士通に資金を出してもらってチームを強くすればいいじゃないか」

 実業団、もしくは企業スポーツという認識がまだまだ根強かった時代である。地域の会合に顔を出すたびに、厳しい言葉をかけられた背景には、町の歴史や時代も強く、強く影響していた。武田が言う。

「試合をしてもお客さんは入らず、応援してくれる人も少ない。川崎の町に出ていっても応援してくれている人はほとんどいない。こんな状態でやっていけるのかという危機感ばかりが募りました。なんのために川崎フロンターレを経営していくのかということを、一から考えさせられたんです」

Jリーグの理念に立ち返る

 “なんのために川崎フロンターレを経営するのか”

 武田はクラブの存在意義を考えに考えた。

「子会社として利益を出して、親会社である富士通に還元するのか。それはクラブを運営していくにあたって本筋ではなく、求められていることではないと考えました。では、富士通グループの一つとして富士通の社員たちの士気高揚のために存在しているのか。それはチームが勝てば、多少はつながるところもあるかもしれませんが、決して本来の目的ではない。前身が富士通サッカー部であるチームが、川崎フロンターレとして遅ればせながらも、Jリーグに参入した背景にはなにがあるのか。もう一度、立ち止まって考えると、それはJリーグの理念に賛同したからではないかという考えにたどり着きました」

 Jリーグの理念を調べていくうちに、目に留まるものがあった。

 それが「Jリーグ百年構想」だった。

 武田が言う。

「私は社長を引き受けた当初、Jリーグのことも知らなければ、フロンターレのことも知りませんでした。そこでJリーグとはなにを目的・主旨として活動しているのかを知ろうと、資料や本を読み漁り、一から知識を得ました。そのなかの一つに『Jリーグ百年構想』がありました。そのスローガンが『スポーツで、もっと、幸せな国へ。』だったのですが、それを見たときに『これだ!』と思ったんです。『地域に根ざしたスポーツクラブを核として、地域に豊かなスポーツ文化を育むための活動に取り組んでいく』。これがクラブの役割であると。スポーツには、単なるエンターテインメント、娯楽や興行という面だけではなく、生活する地域の人々の活力や、喜びを満たす原動力になれる可能性がある。そういうことだと理解しました。川崎フロンターレは、そうした地域の人々の心を幸せにする存在を目指して活動していこう、活動するしかないと考えたんです」

 サッカーという競技の枠組みにとらわれることなく、スポーツを通じて地域に、町に、そして人に根ざして地域に貢献していく。それこそが、Jリーグクラブがその土地に存在する意義だった。

「このスローガンは実に素晴らしいなと思いました。なにより、素晴らしいものというのは年月が経っても残っていくものなんですよね。だから、これから時代が移り変わり、クラブがいろいろと迷ったときには、この原点に立ち返って考えてみることも、大切ではないかと思います」

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著者プロフィール

1977年、東京都生まれ。『ワールドサッカーグラフィック』の編集長を務めた後、2008年に独立。編集プロダクション「SCエディトリアル」を立ち上げ、書籍・雑誌の編集・執筆を行っている。ぴあ刊行の『FOOTBALL PEOPLE』シリーズやTAC出版刊行の『ワールドカップ観戦ガイド完全版』などを監修。Jリーグの取材も精力的に行っており、各クラブのオフィシャルメディアをはじめ、さまざまな媒体に記事を寄稿している。

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