連載:あのJリーガーはいま

久保竜彦が語るトルシエ、ジーコ、日本代表 06年W杯のメンバー落ちした日は朝まで……

栗原正夫
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久保竜彦はJリーグでも日本代表でも多くのサッカーファンを魅了してきた伝説のストライカーである 【写真:川窪隆一/アフロスポーツ】

 左足から放たれる強烈なシュートと打点の高いヘッド、日本人離れした身体能力の高さを生かしたプレーで、久保竜彦はJリーグでも日本代表でも多くのサッカーファンを魅了してきた伝説のストライカーである。

 小学4年時にテレビで見た86年メキシコW杯でアルゼンチンの英雄マラドーナに憧れ、サッカーに夢中になった。W杯には02年日韓大会と06年ドイツ大会と2度出場のチャンスがありながら、いずれも最終選考で漏れた。とくに06年大会の選考は大きな注目を集め、W杯を戦うジーコ・ジャパンの姿を見て、「もし久保がいたら」と思った人は少なくなかったのではないか。

 一方で久保は現役時代、メディアの取材を大の苦手とし、例えば試合後のヒーローインタビューでさえ、「はい」「そうっすか」「わかんないっす」などと繰り返す有様で、記者泣かせとしても知られてきた。

 ただ、久保は単に取材が嫌いだったわけではない。彼なりの事情や考えもあったのである。

「面倒くさかったですけどね……。試合のあとは腹も減ってるし、負けたらイライラしているときもあるじゃないですか。早く帰って一杯やりたいし、外からギャーギャー言われたくもない。それに試合のあとって、あまりほかのことは考えたくなかったというか。『(インタビュアーは)あのときどうでした?』って聞いてきますが、そんなの試合を見てればわかるじゃないですか。嫁にはアホやないかって笑われてましたけどね(笑)」

先輩・森保からの言葉と豪快なプレーの裏側

プロの環境になかなかなじめなかった久保(左)に救いの手を差し伸べたのは、同じ九州出身の元日本代表MF森保一(現日本代表監督)だった 【Photo by Katsuro Okazawa/AFLO SPORT / (c)J.LEAGUE】

 95年に福岡の筑陽学園高からサンフレッチェ広島に加入したころの久保は、将来の日本代表入りなどを意識するような選手ではなかった。ポジションはMF。広島のトップには元日本代表FW高木琢也が健在で、サテライトではサイドバックやストッパーで起用されることもあった。FW起用の転機はその高木の負傷で、4年目の98年には12ゴールを挙げて、そこからは4年連続で二桁ゴールをマークした。

 ただ、当初はプロの環境になかなかなじめなかったと話す。そんな久保に救いの手を差し伸べたのが、同じ九州出身の元日本代表MF森保一(現日本代表監督)だった。
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著者プロフィール

1974年生まれ。大学卒業後、映像、ITメディアでスポーツにかかわり、フリーランスに。サッカーほか、国内外問わずスポーツ関連のインタビューやレポート記事を週刊誌、スポーツ誌、WEBなどに寄稿。サッカーW杯は98年から、欧州選手権は2000年から、夏季五輪は04年から、すべて現地観戦、取材。これまでに約60カ国を取材で訪問している

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