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“名将の孫”から「渡邊佳明」へ――恩師との出会いが運命を変えた

瀬川ふみ子

名将・渡辺元智監督の“孫”として生まれて

「名将の孫」「サラブレッド」として話題が先行するときもあるが、学生時代の地道な努力があり現在地にたどり着いている 【写真:山下隼】

 渡邊佳明は、祖父・渡辺元智さんが監督(当時)を務める横浜高に松坂大輔(現・埼玉西武)が在学中の1997年に誕生。翌98年、佳明が1歳のとき、横浜高は春夏連覇を達成した。生まれたときから、“名将の孫”であった佳明だが、このときから“高校野球界の名将中の名将の孫”として育ってきた。

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 長年、祖母が横浜高・野球部合宿所の食事作りをしていて、幼少時代、佳明の母が祖母から引き継いだので、そこからずっと佳明も合宿所住まい。

 選手たちから「よっくん」と呼ばれ、オフシーズンになると、OBのプロ野球選手たちが続々と顔を出しに来てくれた。小さいころは「たまに遊んでくれる近所のお兄ちゃんぐらいに思っていた」というプロ野球選手だが、いつしか、そのすごさに気付き、「自分もプロ野球選手になりたい」と思い始めた。

 小学2年生から野球を始めると、祖父である元智さんは、よく高校の練習後に野球を教えてくれたという。小さい体でよく動く、野球が大好きな少年だった。

 中学生になると、プロ野球選手を多数輩出している名門・中本牧シニアに入団。バッティングセンスが良く、守備もうまかったが、体の大きい選手がそろう中本牧シニアの中では小柄な部類の165センチで、まだまだ非力。チームはジャイアンツカップ(中学硬式野球最高峰の大会)で3位入賞を果たしたが、佳明自身はセカンドで試合に出たり出なかったり……目立った活躍はあまりなかった。

 そんな佳明だが、高校は、祖父が監督を務める横浜高に行きたかった。小さいころから憧れ続けてきた高校であり、お兄ちゃんたちと同じグレーのユニホームが着たかった。だが、横浜高は、言わずと知れた全国屈指の強豪校。関東全域……いや、全国の強者たちが集まってくる。

 それを聞いた元智さんは「身長は何センチだ? 165? 体が小さいから無理だ。ここ(横浜高)に来てもユニホームは着られない(ベンチ入りができない)。違う高校を考えろ」と佳明を突き放した。

 違う高校であっても、ユニホームを着て活躍してほしいという、祖父から孫への愛の言葉。それに対し、佳明は、行動で応えた。塾に通い、必死に勉強し、一般受験で横浜高に入学したのだ。

“監督である祖父”元智さん(右)と“選手である孫”佳明。超高校級のメンバーの中で努力の末にレギュラーを勝ち取った 【写真は共同】

 そうして始まった“監督である祖父”と“選手である孫”の高校野球。

 佳明の同級生には、中学3年時にU-15侍ジャパンにも選ばれた淺間大基、ジャイアンツカップで優勝した飯塚ボーイズの2人、高濱祐仁(ともに現・北海道日本ハム)と松崎建造(卒業後は立教大)、そして、関東屈指と言われた好選手・川口凌(法政大‐JX-ENEOS)ら錚々(そうそう)たるメンバーがそろう中、「ベンチ入りは難しいんじゃないか」という声が多く、当時コーチをしていた渡辺監督の名参謀・小倉清一郎コーチも「頑張ってセカンドの控えだな。あとは三塁コーチャーか」と話していた。

 だが、佳明は、それらの言葉をすべて跳ね返した。

 入学当初からコツコツ練習して力をつけ、のみ込みも早いからどんどん吸収した。同時に背もグングン伸びてパワーもつき、大方の予想に反して1年秋からベンチ入り。2年時はファーストのレギュラーを獲得した。

 とはいえ、淺間や高濱ら主役がいる中、佳明は、そこにはまったく及ばない脇役。2人がドラフト候補と騒がれる中、佳明は自分の進路について「大学でも野球は続けたい。強い大学に行っても出られないと思うから、試合に出られるぐらいのところがいいな。神奈川大学リーグは地元で横浜スタジアムでも試合をするし、いいな」と、そんなふうに思っていたという。

 そんなとき、ある人物が佳明の野球人生に一筋の光をともした。高校2年の夏の神奈川大会準々決勝、横浜高対桐光学園高の試合を見に来ていた明治大の善波達也監督だ。

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