“名将の孫”から「渡邊佳明」へ――恩師との出会いが運命を変えた
松井裕樹のスライダー打ちで道が開く
高2の夏に放った1本のヒットが、佳明の野球人生にとって大きな分岐点となった 【写真:山下隼】
その試合を見ていた善波監督がこう話す。
「渡辺監督のお孫さんが出ているというのは分かっていたので、どんな選手なのかなと興味を持ちながら見ていたんです。すると、3打席目かな、あの松井くんのスライダーをきちんとつかまえてヒットにしたんです。松井くんの、あの一級品のスライダーを、ですよ。あれを見たとき、“渡辺さんのお孫さん”という見方は消えて、渡辺監督に『“渡邊佳明”選手をうちにください!』とお願いしに行かなきゃ、と思ったんです」
その旨を渡辺監督に伝えると、「ほんとですか? いやー、そんな選手じゃないんだけど……」と驚いた表情。
佳明自身は、そのことを小倉コーチから伝え聞いたそうだが、「小倉さんには『明治から話が来たけど、無理だから断った』と聞いたんです(笑)。『ほかの大学に行けば1年から出られるから』と言われて。自分自身も、試合に出たい気持ちが強かったので、地元の大学がいいやってそのときは思ったんですが、オフシーズンに善波監督がわざわざ(横浜高の)グラウンドにいらっしゃって正式に言われたときに、行ってみようかなって思いました」と話す。
でも、佳明が明治大に行こうかなと思った理由は、こういうことだ。
「正直、大学野球のことって全然分からなくて、東京六大学も東都大学野球も知らなかったんです。明治大のことは箱根駅伝で見て知っていたことと、頭がいい大学だということ。気持ち的には、『試合に出られなくても、4年間在籍していたらいいところに就職できるかな』『有名で頭がいい大学だから、そこを卒業できれば将来安泰かな』って。そんな感じで選んだんです(笑)」
「明治大で野球がしたい」ということではなく、「就職がいいかも」「将来安泰かも」と考えて選んだと。これもまた面白いところではあるが、この善波監督との出会い、そして、佳明の決断が、その後の野球人生を大きく切り開いていくことになる。
大学屈指の名将が見抜いた実力
「就職がいいかも」「将来安泰かも」と考えて選んだ明治大での挑戦はどのようなものだったのか? 【写真:山下隼】
そのとき、善波監督はこう思ったという。
「肩が強いんですよ。遠投をしたら105メートルは放っていた。高校時代は、一度、肘のクリーニング手術をしたので状態を見ながらということだったでしょうし、高濱、松崎、川口というすごいメンツが内野にいたのでファーストだったのでしょうが、そのファーストの守備を見ても、難しい送球も打球もきちっとさばけている。大学では、サードやショートもできるって思ったんです」
善波監督は、その晩、渡辺監督に早速電話をすると「入寮までの間、逆側の練習をしておいてもらえますか」と。それを聞いた渡辺監督は再び驚く。“逆側”つまり、ファーストやセカンドではなく、サードやショートのことで、より高みを目指すことになるからだ。
そして、高校球界きっての名将が、大学球界屈指の名将に尋ねる。「ほんとですか?」「本当にそういうつもりなんですか?」と。それに対し、善波監督は「はい、ぜひ逆側で使いたいんで」。
これまで40数年の指導者経験の中で、数多くのプロ野球選手を輩出してきた渡辺監督でも驚くオファーだったが、この10数年の指導者経験で、引けを取らない数のプロ野球選手を輩出した善波監督の眼は、確かだった。
というのは、数年後に分かること……。
祖父から、「“逆の練習”をしておくように」とだけ伝え聞き「そっちで使いたい」とまでは聞いてなかった佳明は、「あぁ、ファーストにはすごいバッターが来るのか」と、言われた通り、後輩たちに混ざってサードやショートの練習を繰り返していた。
そして佳明は、初めて横浜の地を離れ――祖父のもとから巣立ち、東京・府中市の明治大の寮――善波監督のもとへ。「そこで試合に出られるなんて思っていない」佳明の、まさかの大学野球人生が始まっていくのだ。
<後編に続く>
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渡邊佳明(わたなべ・よしあき)
【写真:山下隼】