僕のターニングポイント〜大切な人との物語〜

ソフトB増田珠、母と歩む野球人生 親子二人三脚で挑んだ「プロ」という目標

瀬川ふみ子

母の反対を押し切り始めたソフトボール

常勝軍団・福岡ソフトバンクホークスで将来を嘱望される2年目の増田珠はどんな少年時代を送ったのか 【写真:山下隼】

 1999年5月21日、増田家の長男として長崎で生まれた珠。「生まれてきてすぐに笑ったんです」(母・美穂さん)という“笑顔の申し子”は、「宝物」という意味を込め「珠」と名付けられた。いつも笑顔、いつも元気いっぱい、好きなことにはとことんのめりこみ、できるようになるまでやめない子。病気もすることなくすくすく育っていった。
 そんな珠は、小学校に上がると「ソフトボールをやりたい」と言い出した。

 美穂さんは「母ちゃんはヤダから」と反対。チームに入ると応援や手伝いなどで親も駆り出される。平日、フルに働いていたこともあり、土日ぐらいゆっくりしたいと思っていたからだ。

 だが小学1年生の珠は、自分で小学校のソフトボールチーム「稲佐青空」に入部し、一人で通うようになった。

 学年が上がり、家に帰って「ピッチャーをやるようになったんだ」と話しても、スポーツに興味がなかった美穂さんは「投げるんだー」「へー」というぐらいで会話は終わり。グラウンドに足を運ぶこともなかった。

 珠が小学5年生になったとき、チームのキャプテンのお父さんが美穂さんにこう言ってきた。

「増田さん、一回でいいから見に来て! 来たら分かるけん。珠くん、一生懸命やってるから。すごく頑張ってるから」と。

 そこまで言われては……と、ついにグラウンドに足を運ぶと、美穂さんは驚く。そこには、珠が、上級生や同級生……仲間たちと懸命にボールを追いかけ、打ち、そしてピッチャーとして投げる姿があった。先輩に可愛がってもらい、同級生と笑顔で楽しそうに過ごす珠。

 それを見た美穂さんは、ハッとして我に返ったという。「何でもっと早く来てあげなかったんだろう、何で今まで見に来てあげなかったんだろう」と。

「スポーツなんてやったことがない私から生まれたこの子が、そういう情熱を持っているってことが全然分かっていなくて……。ほかの親御さんが来ている中で、珠は肩身が狭かっただろうと深く反省しました。体は大きかったけど中身はまだまだ子どもの珠に、かわいそうなことをしてしまってたなと」

 それから美穂さんは、毎週末、グラウンドに通い応援をするようになった。我が子はもちろん、一緒にプレーする子どもたちも可愛い。仲間のお父さん、お母さんたちと一緒に応援できる週末がくるのが楽しみで仕方なくなったという。

「あのとき、キャプテンのお父さんが私を引っ張り出してくれなかったら、一度も行かずに終わっていたかもしれません。私が行かなかった4年間、珠の面倒を見てくださった保護者の皆さんには頭が上がりませんし、ようやく気付いた私が、急に行くようになったときも、皆さんが私を昔からの友達のように迎えてくださったのもありがたかった。本当に感謝の気持ちでいっぱいです」

 そこまで「申し訳なかった」と母は話すが、珠はそんなふうには思っていない。「見に来てほしいなとは思ったこともありましたけど、仕事で忙しいのも分かっていましたし、それ以上にソフトが好きで楽しかったので全然大丈夫です。でも、やっぱり来てくれるようになって嬉しかったです」と笑顔で振り返る。

往復4時間は「親子の“ドライブデート”」

いつもそばにいてくれた母・美穂さんとの思い出について聞くと、温かい笑顔を浮かべながら話す 【写真:山下隼】

 小学6年生になると、珠は「中学生になったらクラブチームに入って硬式野球をやりたい」と言うようになった。ソフトボールを頑張っている姿を見ていた美穂さんは、今度は、快く「いいよ」と言えた。

 だが、家のすぐ近くのチームに入るのかと思いきや、離れたところにある「長崎シニアに行く」と言い出したときは、さすがにビックリしたそう。長崎シニアのグラウンドまでは、山道の、それも狭い道を車で30分以上走らないと行けない。親の送迎が必須だ。

 でも「友達と体験に行って、『このチームだ!』とビビッときたんだ」と目を輝かせて話す珠を見て、「珠のやりたいチームでやりたい野球をやるのだから」と美穂さんは覚悟を決め、それから3年間、毎週土日にその送迎をするように。そして、グラウンドまでの、その送迎タイムが、母子にとってとてもいい時間になっていった。

「行きも帰りもほとんど寝ていたと思うんですが、たまに起きていると、母は僕のプラスになるような話とか、メンタルが下がらないような言葉をかけてくれました。母はもともと出版の仕事をしていて、本を読んだりするのが好きだったので、いろいろ探していてくれたんだと思います。野球の話がほとんどでしたけど、女の子の話なんかもしていましたよ(笑)。母にはすぐ感づかれるので隠さず話しましたね」と珠。

 練習や試合の送迎以外でも、小学生高学年から成長痛があったこともあり、中学に上がると、学校から帰った平日の夕方に車で片道2時間かけて佐世保の整骨院に通い始めた。

 美穂さんは、珠が小さいころは地元の出版社に勤め、その後、フリーのライターに転身し、長崎のタウン誌や旅行雑誌などで活動。珠が中学生になったころは、時間を自由に調整できるようになっていたそうで、平日の夕方、珠と時間を合わせては整骨院に通って体のメンテナンスをしていた。その往復の時間もまた、親子のコミュニケーションタイムになっていたという。

「往復4時間もかけて体のメンテナンスに行っているというと驚かれることもありますが、いろんな話ができるので私が行きたくてしょうがないというか(笑)。親子の“ドライブデート”ですね。シニアのコーチに紹介いただいたその整骨院の先生は、珠の体が成長していくところをずっと見ていてくださっていたので、行くといつも安心させてくださって……それもとても良かったと思います」

 親子で頑張ってきた中学時代、珠は長崎シニアの投打の柱として、大阪で行われたシニアの全国選抜大会に出場。さらに、活躍が認められ、U-15の日本代表にも選ばれた。長崎シニアの指導者、整骨院の先生のおかげはもちろん、親子二人三脚で頑張って取り組んできた賜物(たまもの)だった。

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