高校通算2勝から6年で侍ジャパンに 自然体崩さぬ中日・笠原祥太郎の歩み

高木遊
 2020年東京大会そして世界に向けて、それぞれの地元から羽ばたくアスリートを紹介する連載企画「未来に輝け! ニッポンのアスリートたち」。第42回は新潟県出身、野球の笠原祥太郎(かさはら・しょうたろう)を紹介する。

3年目の今季は開幕投手を務めた中日・笠原祥太郎だが、高校時代までは無名の存在だった 【写真:高木遊】

「まさか……」の繰り返しで、中日・笠原祥太郎は今この場所に立っている。侍ジャパンのユニホームを着ることも、プロ野球の世界に足を踏み入れることも、大学で野球をやることすら一時期までまったく考えていなかった。ただひたむきに取り組み、人との縁に恵まれて、シンデレラストーリーを歩んできた。

高校で野球を辞めるつもりだった

 地元の新潟県立新津高時代に挙げた公式戦での勝利数はわずかに2つ。大学進学も当初は理学療法士を目指して新潟医療福祉大に一般受験するつもりだった。

 ところが、新潟明訓高を甲子園へ8回導いた佐藤和也監督が新設される硬式野球部監督に就任すると聞き、志望を健康スポーツ学科に変えて一般入部した。実は笠原の高校最後の夏の相手が佐藤監督率いる新潟明訓だった。

 後に甲子園に出場する同校を相手に笠原は9回までリードし追い詰める好投も、勝利目前でサヨナラ負け(4対5)。佐藤監督は「当時は、僕が最後の夏(監督退任)を公言し選手を緊張させてしまったと思っていたんだけど、本当に好投手だったんだなって(笑)。そしたら同じタイミングで大学に……思わぬ授かりものでした」と、目を細めながら当時を懐かしむ。

 1期生ということで先輩もいないチームは関甲新学生野球の3部リーグからスタートしたが、そんなチームで佐藤監督が「斜に構えるようなこともない素直な子で努力のたまもの」と評す笠原はメキメキと力を付けた。3年秋には1部に昇格。リーグ新記録の73三振を奪ってプロからも注目される存在に。

「プロとかそんなレベルではないと思っていたのですが、その頃からは少し意識するようになりました」とプロへの思いはこの辺りでようやく芽生え始めた。

 そして4年時も全国4強の上武大打線から8者連続三振を含む16奪三振を記録するなど、6勝0敗、防御率0.72でベストナインに選出。秋には中日からドラフト4位指名を受けた。新潟の大学から直接NPB入りしたのは史上初めてのことだった。また、入学時に最速でも130キロ台中盤だった球速は、最速147キロをマークするまでになっていた。

「自信満々に見下ろすように」意識を変え飛躍

2年目の昨季は6勝を挙げ、秋には日米野球メンバーの一員に。本拠地・ナゴヤドームで好投を見せた 【Getty Images】

 プロ1年目は18試合に登板して1勝3敗、防御率3.14。プロ初勝利を挙げたが「最初から上手くいくとも思ってなかったので、こんなものだろうなと思いました」と冷静だった。

 そして、2年目の昨季に転機が訪れる。開幕ローテーション入りこそ果たしたものの、4月25日の巨人戦で1アウトも取れずに6失点するなど結果を残せずに二軍へ降格した。そんな笠原に対し、ファームの公式戦中に小笠原孝二軍投手コーチから「負のオーラや自信の無さが出ている」と指摘を受けた。そこで笠原は「自信満々に見下ろすように」と意識を変えたところ、腕を振れるようになったという。

 すると、プロ入り後に大きく進化を遂げたチェンジアップもさらに生きるようになった。大学時代も投げていたが変化球は縦に割れるカットボールやスライダーが主だった。だがキャンプ時に「今の球種のままではダメ」と感じて磨いてきた。コツは「抑え込みつつ抜く」という感覚だそうで、ストレートと同じ腕の振りから放たれるブレーキの効いたチェンジアップは「魔球」とも称されるまでになった。

 一軍に復帰した後に6勝を挙げると、秋には日米野球を戦う侍ジャパントップチームに招集。すべてのカテゴリーを通じて初となる代表入りとなった。

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著者プロフィール

1988年、東京都生まれ。幼い頃よりスポーツ観戦に勤しみ、東洋大学社会学部卒業後、スポーツライターとして活動を開始。関東を中心に全国各地の大学野球を精力的に取材。中学、高校、社会人などアマチュア野球全般やラグビーなども取材領域とする。

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