連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
17歳フェンサー・上野優佳が見据える未来 「今がゴールではない。目指すはその先」
次々に快挙を成し遂げる、17歳フェンサーの上野。落ち着いた口調でインタビューに答えてくれた 【スポーツナビ】
「周りからも『優佳はいつもスッとしているし、絶対緊張しないでしょ』っていつも言われるんです。でも内心は、結構緊張しているんですよ。どうやって組み立てようか、考えれば考えるほど不安にもなる。でも、最終的には試合になったらやるしかない、って開き直るんです。ここは絶対決めてやろう、って」
2018年、上野優佳はユースオリンピックのフェンシング女子フルーレ個人戦で日本人選手第一号となる金メダルを獲得し、同年には世界カデ、ジュニアを制覇し三冠を達成。その名を一躍世界にとどろかせた。何しろ日本人女子選手として、同年にジュニア、カデのカテゴリーで世界を制したのは史上初めて。さらに今年の4月には世界ジュニア選手権の団体でも銀メダルを獲得するなど、自らが打ち立てた快挙をさらに上乗せし、急カーブを描くように成長を遂げている。
気づいたらフェンシングを…
両親共にフェンシング選手で、日本代表での指導経験もある父は大分・日田で高校教諭として部活動の指導に加え、地元のクラブで選手強化にも携わっていた。幼い頃から2つ上の兄・優斗とともに、クラブに属する選手と一緒にウォーミングアップで行うバスケットボールやバレーボールに混ざって遊ぶのが楽しくて、練習についていく。最初はただ、それだけのはずだったのだが、気づかぬうちにレールは敷かれていた。
「遊びがメインで行っていたのに、気づいたらフェンシングをやらされたという感じです(笑)。しかもお父さんが厳しかったので、子どもの頃から相当なハードレッスンでした」
学校の授業を終え、クラブの練習が終わった後はユニホーム姿のまま父の高校へ行き、フェンシング部と一緒に練習。泣きながら練習したことも数えきれないが、レッスンの中で兄に勝つとうれしくて、母に自慢しながら報告するのが何より楽しかった。
五輪を視野に入れたのは最近のこと
フェンシング一家に育った上野。小学生の頃から頭角を現していたが、本人は「いつも負けていた印象しかない」と振り返る。強い相手と戦い続けて、今の位置にいる 【写真:西村尚己/アフロスポーツ】
現に2013年9月、7年後の2020年に東京五輪開催が決まり、招致の顔として太田雄貴・現日本フェンシング協会会長が歓喜する姿を見ても、自分がその場所を目指すとは微塵(みじん)も考えていなかった。
「日本でオリンピックがあるんだ。すごいな、見に行きたいな、って。ただ楽しくフェンシングをやっていただけだったし、国内でトップになりたいとは思っていたけれど、“オリンピック”を意識するようになって、視野に入り始めたのは最近なんです」
小学生の頃からさまざまな大会に出場し、6年時には太田雄貴杯にも出場。冗談交じりに太田が「あの時対戦したら絶対負けていた」と揶揄(やゆ)するほど、当時から全国に名を馳せていたのだが、むしろ上野は逆だと振り返る。
「(全日本選手権決勝で敗れた)東晟良ちゃんや(姉の)莉央ちゃんには一度も勝ったことがなかった。いつも負けていた印象しかないんです」
初めて出場した全日本選手権(16年)の記憶も鮮烈だ。当時は中学2年生。予選を勝ち上がり、決勝トーナメントに進むも、準々決勝ではロンドン、リオと二度の五輪に出場した西岡詩穂と対戦した。コーチでもある父からのアドバイスはたった一つ。
「とにかく強いから、とにかく楽しんでこい」
案の定、試合は完敗。経験、技術、リーチで勝る西岡に、上野いわく「ボッコボコにされた(笑)」。
だが同時に、強い相手と戦う喜びも知った。
大分では兄を練習相手に技を磨いたが、大学進学を機に兄が上京。それでも当初は大分を拠点に練習していけばいいと考えていたが、刻々と迫る東京五輪、さらにはその先のパリ、ロス五輪で中心選手となり得る上野の可能性を周囲も放っておかない。数多くの誘いの中から、北京五輪日本代表監督も務めた江村宏二氏が指導する星槎国際高への転校を決め、家族と離れて単身で上京。日本代表として、本格的に世界を見据えた戦いが始まった。