1998年 美談となった「Fの悲劇」<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

サポートクラブを失った20年の重み

横浜フリューゲルスの実質的な消滅が発表されてから20年。天皇杯優勝により、問題の本質がおざなりになってしまっている 【写真:Shinichi Yamada/アフロスポーツ】

 今年4月、都内にあるスポーツバーにて、横浜フリューゲルスの元サポーターたちが集まるイベントが開催された。1993年のJリーグ開幕時、「オリジナル10」に名を連ねたフリューゲルスは、同じ横浜市を本拠とする横浜マリノス(当時)と合併。そこから現在の横浜F・マリノスとなるのだが、実質的には「フリューゲルスの消滅」という形で収束することとなった。後に残されたのは、それまでフリューゲルスを応援し続けてきたサポーターたちである。合併は親会社(日産自動車と全日本空輸)の都合であり、「今後は一緒にF・マリノスを応援しましょう」と言われても、ダービー関係にあった両クラブのサポーターが素直に共闘できるはずもない。

 突然の合併が発表されたのは、1998年10月29日のこと。あれから今年で20年になる。当時は20代から30代の血気盛んだったサポーターたちも、今では40代から50代の中高年。それでも愛するクラブがあった時代を語る時、彼ら彼女らは瞳を輝かせながら饒舌になる。そんな中に、当時のサポーターグループ「ASA AZUL(ポルトガル語で『青い翼』の意味)」のリーダーだった川村環の姿があった。彼女もまたユニホーム姿だったが、すでにネームや背番号がところどころ剥がれかけている。当時も今も珍しい、女性リーダーだった川村は、サポートクラブを失った20年の重みについてこう語る。

「今の20代とか、下手をすると30代でも『フリューゲルスって何ですか?』という人はいますね。それくらい記憶の風化が進んでいるということですよ。そのことについては、かねてより危機感を持っています」

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第21回となる今回は、1998年(平成10年)をピックアップする。この年のサッカー界の一番の話題は、何といってもワールドカップ(W杯)フランス大会。岡田武史監督率いる日本代表は、3戦全敗で大会を去ることとなったが、悲願だったW杯初出場はサッカーファンのみならず国民全体の関心事となった。これを98年の光とするならば、影となったのがフリューゲルスの合併と消滅である。

 フリューゲルスを襲った突然の悲劇については、これまで多くの証言が記事になったり書籍化されたりしている。ある意味、出尽くした感さえあると言ってよいだろう。それらに目を通していつも思うのは、いわゆる「美談」に終わっているものが多い、ということだ。確かに合併発表以後、フリューゲルスは残りのリーグ戦と天皇杯すべての試合に勝利し、99年元日の国立競技場で堂々とトロフィーを掲げた。しかしこの「有終の美」により、問題の本質がおざなりになってしまった感は否めない。そこで本稿ではJリーグやクラブ関係者や選手ではなく、あえて市井の人々の証言を元に、あらためて「Fの悲劇」を振り返ることにしたい。

98年10月29日、突然の合併発表

1998年10月29日に突然の合併発表。多くの関係者にとって、寝耳に水の事件であった 【(C)J.LEAGUE】

「あの日のことはよく覚えています。朝の4時くらいに自宅に電話がかかってきたんですよ。留守電にしていたら『姉さん、フリューゲルスが大変だ! すぐにテレビ見て!」って声が聞こえてきて。私は当時、グループでは『姉さん』って呼ばれていて(笑)、かけてきたのはコンビニでバイトしていた子でした。それでテレビをつけたら、早朝の情報番組が早刷りのスポーツ紙を紹介していたんですけれど、そこに『フリューゲルス消滅!』とか書いてあって。どういうことか、まったく理解できなかったですね」

 川村が回想するように、フリューゲルス合併のニュースはサポーターや関係者にとって、まさに寝耳に水の事件であった。折からの平成大不況で、フリューゲルスの親会社の1つであるゼネコンの佐藤工業が撤退を決断。残された全日空が日産と協議した結果、それぞれのクラブを合併させるという合意に至り、当時の川淵三郎Jリーグチェアマンがこれを認めた、というのが大まかな経緯である。当時、フリューゲルスの専属フォトグラファーだった高橋学も、10月29日早朝のニュースで異変を知ったひとりであった。

「仕事で(運営会社の)全日空スポーツには何度も行っていましたが、社内にそうした雰囲気はまったくなかったのでびっくりしました。すぐに(所属するフォトエージェンシーの)社長に電話したのですが、やっぱり知らなかったみたいで。とりあえず普通に会社に行って仕事をする合間に、全部の新聞に目を通しました。当時はまだネットも普及していませんから、得られる情報は新聞とテレビくらいでしたね」

 フリーライターのジュンハシモトは当時、フリューゲルスについて「前園真聖がいたチーム」という認識しかなかったという。しかし「何か大変なことが起こった」という直感から、まずはサポーターの話を聞こうと、その日の夜に新横浜に駆けつけた。

「到着したのが、夜の8時とか9時とかですよ。それなのに結構な数の人が集まっていましたね。70〜80人はいたと思います。終電を過ぎても残っていた人たちがいたので、朝までいろいろな話を聞きました。正直、まったく前向きな話なんかなくて『これじゃあ、とても記事にならないな』と(苦笑)。それでも『このあと、この人たちはどうなっていくんだろう』と考えているうちに、どこまでやれるか分からないけれど、自分で納得できるところまでフリューゲルスを追いかけてみようと思いましたね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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