川島永嗣の恩師が語るGKの神髄<最終回> ブッフォンとの出会いと育て方について
長いキャリアの中で、数えきれないほどのトロフィーを手にしたブッフォン(写真左) 【写真:Maurizio Borsari/アフロ】
歴史に残る偉大なGK・ブッフォン
私はパルマの育成GKコーチ時代にブッフォンと出会い、彼を育てるという幸運に恵まれた。この連載の最後に、彼との出会い、そして彼をどのように育てたかについても取り上げておきたい。
私がパルマの育成部門GKコーチに就任したのは、1990年のことだ。ブッフォンと出会ったのはそれから1年後、91年5月のことだった。当時13歳、生まれ育ったトスカーナ州の海辺の町カラーラの、カナレットという小さなユース専門のクラブでプレーしていたが、つてを頼ってパルマのテストを受けに来たのだった。
その時には他にもう1人、彼よりも4歳年上(74年生まれ)のGKが数日前から練習に参加していた。そこでその日は、4歳違いの2人に同じメニューをやらせて、反応性や判断力、学習能力といった基本的な資質を見ることになった。驚いたのは、13歳のブッフォンが、もう1人の17歳よりもずっと優れていたことだった。もちろん、瞬発力をはじめとするフィジカル能力の絶対値を比較すれば、明らかに劣っていた。しかし、GKに最も必要な反応性や敏捷(びんしょう)性、判断力、学習能力といった資質は、一目見て分かるほど傑出したものがあった。
基本的なエクササイズを一通りこなした後、今度はゴールに立たせてシュートを受けさせた。ポジショニング、動きの鋭さ、ダイブする時のフォームといったものをチェックするためだ。まず、17歳の方を試すと、私の蹴るほとんどのボールがゴールに決まってしまった。決して止められないようなシュートだけでなく、いいGKなら止められるようなシュートも含めてだ。今度は、ブッフォンに同じことを試した。すると、これは無理だろうというようなシュートを止めてしまう。身のこなしはまだまだぎこちないのだが、とにかくボールに手が届くのだ。私は自分の蹴り方が緩いのではないかと思って、シュートを段々強く、難しくしていったが、結果は同じだった。この子はただ者ではない、というよりも特別なタレントだとはっきり分かったのはその時だった。
天性の反応速度とパーソナリティーの強さ
パルマ時代のブッフォン 【写真:ロイター/アフロ】
もう1つ、私の心を強く打ったのは、彼の瞳だった。良く動く瞳が、頭の回転の早さをはっきりと感じさせたからだ。そして、GKだというのに平気で半袖のシャツを着て、全く怖れることなくシュートに飛び込んで行く、あっけらかんとした大胆さとパーソナリティーの強さ。
その日の練習が終わってすぐ、私は興奮して、当時育成部門の責任者だったファブリツィオ・ラリーニに「あの子は素晴らしい素材だ、絶対すぐに獲るべきだ」と言ったのを覚えている。1時間かそこら一緒に練習しただけで、これだけの確信を与えてくれた素材は、後にも先にもブッフォン以外にはいない。身体的な欠点には私ももちろん気付いていたが、X脚など、まだ成長段階にある今なら、靴に適切な中敷きを入れることで矯正できるし、身のこなしもコーディネーション・トレーニングによって改善することは十分に可能だった。実際、それから4年後に17歳でセリエAにデビューした時には、すでに均整のとれた体形と身のこなしを手に入れていた。
実を言えば、ラリーニは当初、ブッフォンの獲得にそれほど乗り気ではなかった。ジジはまだGKになったばかりで荒削りな素材でしかなかったし、所属していたカナレットでも絶対的なレギュラーではなく、もう1人の同い年の子と交代で試合に出るような感じだった。ラリーニは、むしろもう1人のGKの方がいいんじゃないか、と言ったほどだ。地元のスカウトたちの中にも、そう言う人は少なくなかった。その子は小さな頃からGKをやっていたので、一見するとプレーが板についているように見えたのだ。しかし私には、ブッフォンがまったくレベルの違うタレントを秘めているという確信があった。
これが私とブッフォンの出会いだった。しかし、彼が本当に大きな驚きを私にもたらしたのは、このテストの時ではない。その年の8月、パルマの一員となって一緒に練習を始めてからの成長の早さこそが、最大の驚きだった。彼がパルマに来てから1カ月ほどたった時、私は父親のアドリアーノさんにこう断言したものだ。「この子はあと3、4年もすればトップチームに上がってプレーしますよ。20歳までに代表にデビューして、すぐにイタリアでナンバーワンのGKになります」。お父さんは今でも、私に会うたびこの時の思い出話を繰り返す。