体罰で退職した監督が1日で復帰 背後にある親の思い、その上で体罰をなくすには?
【写真は共同】
そのキーワードは「人権」だった。人権の世紀と言われる今、どこまでが許され、どこまでが許されないのか高校野球で多くのヒット作を持つ中村計氏が、元球児の弁護士・松坂典洋氏に聞いた。日本人に愛される「高校野球」から日本人が苦手な「人権」を考える知的エンターテインメント。
『高校野球と人権』(著:中村計、松坂典洋)から一部抜粋して公開します。
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殴って感謝されるという成功体験
松坂 私はそれは少し違うと思うのですが、体罰問題を起こして辞めさせられても、後に復帰の嘆願書が集まるケースがすごく多いんです。福岡に駅伝の強豪校として知られる大牟田高校という学校があるんです。この前、そこの監督は部員を平手打ちして退職したのですが、親や選手たちの要望を受けて、わずか1日で指導に復帰しているんです。学校側も「現場に携わって欲しいという親の総意」だとコメントしていました。それって、どういうことなんだろう、と思ってしまうんですよ。
中村 僕も高校時代、監督に平手打ちを食らったことがあるんです。そのこと自体はすごく嫌だったし、体罰がいいとは思えないんですけど、それ以上に感謝しているんですよね。高校、大学と、すごく大きなピンチが一度ずつあったのですが、その監督の言葉にすごく救われたんです。その人に憧れて、大学で教職課程を選びましたし。だから、そういう指導者ほど、そういう嘆願書が集まるのは、何となくわかるんです。
松坂 私は小学校時代の監督にちょっとケツバットされたぐらいはありますが、いわゆる体罰を受けた経験がないんです。だから、そういう生徒と先生の信頼関係というのがまったくわからないんです。
もう一つ言うと、嘆願書が集まるケースというのはいい先生だからというよりは、勝たせてくれる先生だからというメリットが優先しているような気もするんですよね。
中村 いい先生と、勝たせてくれる先生。その境界線も難しくないですか。ただ、僕の恩師は勝たせてくれる監督ではなかったですね。「勝つことより大事なことがある」みたいな感じで、打てる選手よりもがんばっている選手を優先的に起用してしまうタイプでした。
依怙贔屓(えこひいき)と言えばそうなんでしょうけど。
おそらく怒りにまかせてボコボコにするような極悪非道な監督は、ごく一部だと思うんです。体罰をする監督がみんなそんな感じだったら、体罰なんてあっと言う間になくなると思うんですよ。今の時代、音声や動画などをネットにアップされて、すぐに退場させられてしまうので。なくならないのは、その何倍もの決して明るみに出ない、許されている無数の体罰があるからだと思うんです。
松坂 そういう体罰を振るっている指導者は往々にして頼りがいのある、優秀な先生だったりするのでしょうね。
中村 僕もときどき取材で監督になぜ体罰を働いてしまったかを聞く機会があるんです。そうすると大抵、わからないでもないな、という感じなんです。この人の性格上、許せないと思ってしまうんだろうな、と。そういうときに僕が指導者から感じる「生徒のために」という思いは決して噓ではないと思うんです。
メディアでときどき体罰をした先生がインタビューに答えたりしていますよね。そうすると、10対0で教師が悪いみたいな書き方になっているじゃないですか。僕は実際は、そんなことはないんじゃないかなと思っているんです。ご時世上、メディアが体罰教師を擁護していると思われたらまずいので、そういう書き方にせざるを得ないだけで。僕も記事にするとしたらおそらくそうせざるを得ないと思うんです。編集者から体罰肯定と捉えられかねませんよとの指摘を受けるので。でも、よくよく話を聞いたら、そこまでのことをしたら思わず手を上げてしまうよなというケースも少なくないと思うんです。
中村 いや、僕は体罰に関しては、本当に嫌だったんです。僕は動物じゃないんだ、と思いましたから。そのとき、なぜ殴られなくてもわかると言えなかったのか、本当に後悔しているんです。今も体罰は動物的行為だと軽蔑しています。ただ、体罰は嫌だったけど、それ以上に有り余る愛情を受けたから憎んではいないし、むしろ、感謝しているわけです。
そういう人も、いっぱいいると思うんですよ。
でも、僕も含めてそういう人間がいっぱいいるのも体罰がなくならない原因なのだと思います。殴られたことがあるのに感謝していると言う。さらには、恩人だとまで言う。
松坂 それは強烈な成功体験になりますよね。殴った相手に感謝されるわけですから。
中村 僕はあのとき先生に殴られて目が覚めました、とか。卒業後、酒の席で恩師にそんな風に言っている人はたくさんいると思うんです。だから、体罰はなくならない。何だかんだいっても美しい思い出になってしまっているから。
松坂 その感覚、わからないんですよね。殴られても感謝しているという。
中村 でも、昔、父親にはよく殴られたけど、今はすごく感謝しているみたいな子どもはたくさんいるでしょう。
松坂 愛があれば殴っても許される、ということなんですかね。
中村 僕の恩師は僕らが卒業してしばらくしてから、もう体罰はやっていないと言っていました。「この時代、手を上げて得することは何もない」と。本当にその通りですよね。ただ、もしその先生が体罰なり、暴言なりで職を追われるような事態になったら、僕も復帰を願う運動に加わっていたと思うんです。でも、今の時代はそれもアウトなんでしょうね。それは体罰や暴言を肯定しているのと同じことになるのだと思います。
松坂 ただ、それが人情というものですよね。だから高野連も日本サッカー協会や日本バスケットボール協会のように指導者ライセンス制度を導入すればいいのだと思います。そこでルールとして定める。体罰をしたら一定期間、ライセンスを剝奪し、研修を受けてもらう。そして、その期間を過ぎたら、審議にかけて、再発の恐れがないと判断したら復帰させればいいと思うんです。
中村 本当にそうですね。そうすれば、いくら「いい先生」だからといって周りも何もしようがない。自分たちが何とかしなければというジレンマから解放されます。
松坂 明確なペナルティを与えないと「体罰=罪」という意識が根付かない。
中村 それこそ、嘆願書が集まったりしたら、指導者もやっぱり俺のやり方は間違っていなかったんだとなりかねませんよね。そういう誤った方向性の正義を生まないためにも、確かに何らかの強制力が必要な気がします。
書籍紹介
【(c)KADOKAWA】
甲子園から「丸刈り」が消える日――
なぜ髪型を統一するのか
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そのキーワードは「人権」だった
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