廣瀬順子が夫婦で描く、2020の野望 “最強コーチ”と新たなスタイル模索

宮崎恵理
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提供:東京都

「自分にもう一度自信が持てる」

リオデジャネイロパラリンピックで銅メダルを獲得した廣瀬順子の現在を追った 【写真:宮崎恵理】

 2016年リオデジャネイロパラリンピックの柔道女子57kg級に出場した廣瀬順子(伊藤忠丸紅鉄鋼)は、3位決定戦でスペインの選手と対戦した。一本背負いで相手を崩すと力強く押さえ込み、そのまま一本勝ち。この瞬間、日本の視覚障がい者柔道女子初の銅メダルが決定した。

 パラリンピックの柔道は、視覚障がい者が出場する競技だ。障がいの状態や程度によるクラス分けはなく、一般の柔道と同様に体重別の階級で競技が行われる。ルールもほとんど一般の柔道と同様だが、大きな違いは選手が互いに組んだ状態で競技が始まること。場外に出たり、両者が離れた時には「待て」の合図で畳の中央に戻り、再び組んだ状態で再開する。

 1990年に山口県で生まれた順子は、小学5年の時に少女漫画雑誌「なかよし」で読んだ『あわせて一本』で柔道に一目ぼれ。自宅近所の道場に通い始めた。中学2年で黒帯となり、高校1年の時には78kg級でインターハイに出場した。

 19歳の時に病気の合併症で視力が落ちた。中心が見えないため、視界の両端でものを見るような感じだという。

「視覚障がい者柔道のことは病気になる前から知っていました。でも、大学では普通の女の子の生活がしたいと思って、退院後も特に柔道をすることはなかったんです」

 視覚障がいスポーツの一つ、ゴールボールの試合の手伝いに出かけた際、視覚障がい者柔道の関係者を紹介してもらったことで、再び柔道を始めた。

「退院後に編入した京都の花園大では、やりたかった福祉の勉強をしていましたが、やはり勉強にも時間がかかる、アルバイトがしたくてもなかなかできない。そういう中で視覚障がい者柔道に出会って、自分にもう一度自信が持てるかも、と思えたんです」

廣瀬を語る上で欠かせない存在

順子は夫の悠(写真)とともに日々鍛錬を積む 【写真:宮崎恵理】

 廣瀬の活躍を語る上で、欠かせない存在がある。それは夫の悠(はるか)だ。悠も小学2年から一般の柔道を始め、柔道で進学した宇和島東高3年の時にインターハイに出場。高校2年の時に緑内障と診断され、3年で手術を受けた。現在、左目はほとんど見えていない。右目は中心が少しだけ見えるため、日常的に右目だけを使っている状態だという。

 通っていた盲学校の教師が悠に高度な柔道経験があることを知ると、「パラリンピックに出場できるぞ」と視覚障がい者柔道を教えてくれたのだった。08年の北京パラリンピックでは100kg級で出場。13年の国際大会出場の際に2人は出会い、15年12月に結婚。悠にとって2度目となる16年リオ大会には90kg級選手として、夫婦そろって出場を果たした。

 悠は、高校卒業後、ブラジリアン柔術を始めた。ブラジリアン柔術は寝技中心の格闘技である。結婚後、順子も悠とともにブラジリアン柔術に取り組み、苦手だった寝技を克服。リオパラリンピックの銅メダル獲得に、そのスキルが生きたのだった。

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著者プロフィール

東京生まれ。マリンスポーツ専門誌を発行する出版社で、ウインドサーフィン専門誌の編集部勤務を経て、フリーランスライターに。雑誌・書籍などの編集・執筆にたずさわる。得意分野はバレーボール(インドア、ビーチとも)、スキー(特にフリースタイル系)、フィットネス、健康関連。また、パラリンピックなどの障害者スポーツでも取材活動中。日本スポーツプレス協会会員、国際スポーツプレス協会会員。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。

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