ブラサカ川村怜が3年後に描く青写真 ブラジルを倒して東京で世界一へ

宮崎恵理
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提供:東京都

ブラサカ選手にとっての走る時に必要な器官は?

ブラインドサッカー日本代表主将の川村怜。東京へ向けての今に迫った 【写真:宮崎恵理】

 一般的に、健常者は得る情報の8割以上を視覚に頼っていると言われる。本や新聞を読む、テレビやスマホを見ることは言うに及ばず、バス停に停まっているバスを見つけて走り出すことも、見えていればこそ。路面状況を判断し危険な障害物をよけて、バス停までの最短距離と速度を無意識に実践することができる。

 見ることが情報獲得の手段にはならない視覚障がい者が“走る”時に不可欠な器官は何か。聴覚とともに、ブラインドサッカー日本代表主将の川村怜にとって、それは“足”である。足はサーチする器官なのだ。

 筑波技術大学に進学してブラインドサッカー(ブラサカ)に出会った川村は、初めてアイマスクを装着した時のことをよく覚えている。恐怖心で立ちすくんだのだった。

「文字通り、一歩も動けない。どっちを向いているのか、どう動いたらいいのか分からない」

 空間認知。

 その感覚を研ぎ澄ませることで、川村は一歩も動けないところから、日本のトップ選手に昇りつめた。

 ブラサカは、フットサルコートと同じ大きさのピッチ、ボールを使用して行われる視覚障がい者のサッカーだ。ボールは転がすと「シャカシャカ」という音がする。4人のフィールドプレーヤーは全盲の視覚障がい者、ゴールキーパーは晴眼者や弱視者といった視覚がある人が担う。ゴールキーパー、相手ゴールの裏にいるガイド、そして監督が試合中にボールや相手選手の位置、動きについて、声で選手に情報を伝える。フィールドプレーヤーはアイマスクを着用した状態で、ボールの音や味方の声を聞き分けてプレーする。

 2004年のアテネパラリンピックから正式種目となり、16年のリオデジャネイロ大会までブラジルが4連覇を達成。日本はパラリンピックの出場経験がない。

衝撃的だったブラサカとの出会い

川村にとって足はサーチする器官。最初は何もできないところから、空間認知能力を磨いて、日本代表選手まで登りつめた 【写真:宮崎恵理】

 1989年に大阪府で生まれた川村は、5歳で眼球に炎症を起こすブドウ膜炎を発症。さらに7歳の時、頭部を強打したことで網膜剥離となり視力が一気に低下した。

 サッカーを始めたのは小学1年の時。自宅近所のクラブチームに通った。
「自分でドリブルしてシュートまで運ぶのは難しかったですが、それでも得点を決めるということが何より楽しかった」

 進学した中学がサッカー強豪校だったこともあり、続けることが難しくなる。そのため、中学、高校では1人でトラックを走る陸上競技に専念した。

 視覚障がい者の専門学部がある筑波技術大学に進学すると、ブラサカというスポーツがあることを知る。

「アイマスクをつけた選手が、全速力でボールを蹴っている。もう、衝撃でした」

 ブラサカで、再び、サッカーに挑戦できる。迷わず始めたのだった。

「まずは音を聞き分けることから始めました」

 あらゆる音がどの方向から聞こえるか、どのくらい離れているのか。音で位置を確認し、少しずつ動く範囲を広げていく。

「でも、実際にピッチの中でプレーするためには、どれだけボールに触ったかがすごく重要なんです」

 川村は、チームの練習とは別に、1人体育館の壁を相手にボールを投げてはトラップし、シュートする練習を黙々と続けた。
「ボールコントロールに余裕が生まれると、周りの音がしっかり拾えるようになる。そうしてやっと、ボールの音、GK、ガイド、コーチの3カ所からの声、相手の気配を立体的に処理できるようになっていったんですね」

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著者プロフィール

東京生まれ。マリンスポーツ専門誌を発行する出版社で、ウインドサーフィン専門誌の編集部勤務を経て、フリーランスライターに。雑誌・書籍などの編集・執筆にたずさわる。得意分野はバレーボール(インドア、ビーチとも)、スキー(特にフリースタイル系)、フィットネス、健康関連。また、パラリンピックなどの障害者スポーツでも取材活動中。日本スポーツプレス協会会員、国際スポーツプレス協会会員。著書に『心眼で射止めた金メダル』『希望をくれた人』。

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