“KJ”が振り返る米国での高校生活 「実力主義」の世界で貫いた文武両道
NCAAでプレーした初の日本出身選手である“KJ”こと松井啓十郎に話を聞いた 【スポーツナビ】
松井は米国の高校、大学でバスケを学び、NCAA1部でプレーした初の日本出身選手でもある。今回のインタビューでは想像の難しい「米国の部活生活」や、彼が成し遂げた「文武両道」について述べてもらった。また彼ならではのシューターへの愛、NBAのスタープレーヤーに対する評価も話してくれた。
バスケは「素人だった」父から熱心な指導を受ける
A東京から三河へ移籍した松井。三河は「チーム全員が『勝とう』という意識で一致している」と語る 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】
準決勝はシーホースらしく、いい形でディフェンスからオフェンスという流れができたのかなと思います。でも決勝になって一発勝負の難しさを改めて感じました。なかなか三河のリズムが取れなかったです。千葉は今シーズンまだ対戦がなくて、相手もこちらも選手が変わっている。そういう中でお互いの強みをどちらが出せるのかというときに、相手が上回ったのかなと思います。
――今季はアルバルク東京から三河に移籍しました。チームの印象はどうですか?
チーム全員が「勝とう」という意識で一致しています。若い時は僕も自分が目立ってやろう、自分が点を取らなければだめだなという感じだったのですが、今のシーホースは「俺が得点しなくても勝てればいい」という考えを持っている選手が多い。(桜木)ジェイアールなんて特にそうです。それが伝わってくるからこそ、すごくやりやすいですね。
――昨季まで所属していたA東京はバイリンガルの選手が多いチームでしたが、三河では日本人選手と外国出身選手の間に入ることも増えたのではないですか?
それはやっています。みんなで一緒に食事に行ったときも僕が通訳したり、外国人同士で話している内容も「こういうことだよ」と伝えたりしています。外国人だけで笑っていると、日本人も何をしているのか知りたいですから。
――高校から渡米されていますが、その前に日本国内でインターナショナルスクールに通ったと聞いています。
中1の1学期に日本の中学を辞めて、インターナショナルスクールに入りました。バスケ部に入って、英語を勉強しつつやっていました。2年間勉強して米国に行きました。(編注:インターナショナルスクールは米国などと同じ秋入学なので、学年の切り替わりが9月になる)
うちの父は中1で米国に行かせたがっていたんです。でも母が「日本人に生まれたんだから中3までは日本にいないとダメだ」という考えでした。間を取って(渡米が)中2になって、日本で英語を学べる環境ということでインターナショナルスクールになりました。
――お父様が熱心だったということですが、バスケはされていたのですか?
素人です。でもバルセロナ五輪(編注:1992年で松井選手が小学1年のときに開催)でマイケル・ジョーダンのプレーを見て、「バスケをやらせたい」と。それでいろいろ勉強したんです。僕をクラブチームに入れずに、卓球部に入っていました。
公園とかのリングで父と2人で練習をしたり、衛星放送でNBAが見られたのでそれを見て勉強したり……。都内の施設で、開放されているバスケットボールコートがあったんです。2面あるんですけれど、半面が外国人のやっている場所で、そこで小学校のときにやっていたんですよ。そこで元トヨタ自動車のヘッドコーチ(HC)のジョン・パトリックさんと知り合い、仲良くしてもらっていました。
反対の面では岡田優介(京都ハンナリーズ)がやっていたらしく、後で聞きました。岡田は周りに「お前くらいの年でうまい奴がいるよ」と聞いていたみたいなのですが、僕は岡田のことを全然知らなかった。トヨタに入って「そうだったんだ」って知りました。
全世界から選手が集まるモントローズ高へ
モントローズ高時代の松井(右)。1学年下には伊藤大(中央)も在籍していた 【Getty Images】
ジョンが前にナイキジャパンへ務めていたのですが、(松井が中学生のときに)ナイキが日本のトップ40人を集めた高校生のキャンプを開いたんです。田臥勇太選手(栃木ブレックス)が高校生のときです。
ジョンの知り合いがモントローズのHCをやっていて、高校のチームをそのまま日本に連れてきたんです。自分はそのキャンプを見に行って、選手やコーチの振る舞いがすごくいいから挨拶に行って、「入れてください」と申し込みました。渡米してワークアウトをしたり、コーチに見てもらったりもしました。
――Bリーグだと伊藤大司(レバンガ北海道)、富樫勇樹(千葉ジェッツ)が高校の後輩ですね。
伊藤大司は(1学年下に)いましたね。富樫は全く被っていないです。
――モントローズの日本人留学生第1号は松井選手だったのですか?
伊藤拓摩(日本代表サポートコーチ兼通訳/大司の兄)もいるんですよ。選手としては高2までで、その後はコーチの方に専念していました。
――海外からの留学生に対してオープンな学校だったんですね。
そうですね。アジアは僕たちだけですけれど、全世界から集まっていました。リトアニア代表のリナス・クレイザとか、グレイヴィス・ヴァスケス(ベネズエラ)といった、後にNBAへ行く選手と一緒にやっていました。
――ケビン・デュラント(ゴールデンステイト・ウォリアーズ)も1年後に卒業していますが?
彼は僕が卒業してから転校してきたんです。お互いのことは知っていて、違う高校で対戦はしていますが、一緒にプレーはしていません。
上下関係がなく、実力主義だった米国の「部活」
高校時代は「いかに自分がいい大学へいくか」ということだけを考えてプレーしていた 【Getty Images】
僕は中2で行きましたが、そのときは強くなっていました。1軍に入ったのは高2が初めてです。1軍と2軍があって、8年生(中2)、7年生(中1)のチームもあります。モントローズは幼稚園から高校まで全部あります。でも全校は420人くらいで、1学年が30人くらいでした。
――米国の「部活」のカルチャーや練習はどうなのですか?
上下関係はないですね。(チームメートは)もちろん下の名前で呼びます。実力主義だから、うまい奴が使われる。
高校は「何時間しか練習しちゃいけない」というルールが無かったんです。2軍のスターターで、1軍の控えという選手は両方で練習しなければいけない。3時から練習して、8時くらいに終わるというのが最悪です。自分も10年生(高1)のときにそうでした。ただNCAAにいくと、練習時間が(1日最長)3時間って決められています。
――朝練、個人の居残り練習は?
朝練はないですね。個人のシューティングもなくて、練習の中に全部組み込まれていました。シュートやディフェンスのドリルも(全体練習に)盛り込まれています。アシスタントコーチも3、4人いるので、「ここはビッグマン」「ここはガード」「ここはシューター」という感じで、バラバラにやります。高校の1軍が16人、2軍は12、3人くらいだったと思います。
――ウインターカップの取材で「3年生のため」「先輩のため」というコメントを選手たちから何度も聞いて興味深かったのですが、米国のカルチャーだとそういう感覚は無さそうですね。
基本的にみんな個人のことを考える方が多かったです。僕もそのときはいかに自分がいい大学へいくか、ここで活躍できるかということしか考えていなかったです。もちろん、シーズン中は試合に勝つことを意識します。