サッカー少年だったスラムダンク奨学生 ホール「理想は米国で活躍し続けること」

平野貴也

「スラムダンク奨学金」の第11回奨学生に選ばれた昌平高校のホール百音アレックス 【平野貴也】

 Jリーグ、大宮アルディージャのユニホームを着て全国大会で活躍していたサッカー少年は、いつの間にか高校バスケットボールの注目選手となっていた。しかも来春には海を渡って新たな挑戦に踏み出すという。

 日本の有望な学生に米国への留学機会を与える「スラムダンク奨学金」の第11回奨学生に選ばれた昌平高校(埼玉)3年のホール百音(もね)アレックスは、本格的にバスケットボールに打ち込んだのは高校から。キャリアは浅いが、身長188センチでパワーがあるたぐいまれな身体能力の持ち主で、成長力を期待されている逸材だ。

 バスケへ転向した経緯、高校での成長、米国挑戦に向けた期待と決意について、ホールと、彼をスカウトして育てた昌平高の畔川秀雄ヘッドコーチ(HC)に話を聞いた。

Jクラブの育成組織で活躍した少年時代

中学1年までは大宮アルディージャのジュニアチームでエースストライカーとして活躍していた 【平野貴也】

――ホール選手は、小学6年生のとき、大宮アルディージャのジュニアチームでエースストライカーでしたね。2011年の全日本少年サッカー大会で3位になったときに取材をしていました。バスケの取材で会うことになるとは思いませんでしたが、いつ転向したのですか?

ホール 中学生になるときに、最初はアルディージャのジュニアユースに昇格できたのがうれしくて、そこでプレーしていました。ただ、サッカーは好きだったのですが、友だちと遊ぶ感覚でサッカーをやっていたので、通う時間も大変だし、友だちと遊ぶ時間もなくなってしまうので、ちょっと続けるのは難しいなと思って、中学1年の途中で地元のFC ASAS上尾というクラブチームに移りました。

 バスケは、中学1年の終わりに体育の授業でやって面白かったので、休み時間に仲の良い友だちとやっていたのですが、その中の1人がバスケ部で、中学2年のときに彼に誘われてバスケ部に入りました。中学2、3年は、クラブチームのサッカーと部活のバスケを両方やっていて、割合としては7対3くらいでサッカーがメーンで、バスケは楽しく遊んでいたという感じでした。

――サッカー少年としてはトップレベルのキャリアを持っているわけですが、当時を振り返って、どんな思い出がありますか?

ホール 県大会で江南南サッカー少年団という強いチームと対戦して、得点を決めて逆転勝ちしたことは覚えています。いろいろなことを教わりましたけれど、小学生だったので、全般的には、その場その場でやっていた感じですね。試合が始まったら、ボールを追って……という感じで。全国大会に関しても、試合内容より、グラウンドが広かったこととか、ご飯がおいしかったこと、アパートみたいな建物にみんなで泊まったことが楽しかったということの方がよく覚えています(笑)。

――中学時代は、サッカーとバスケの「二刀流」だったということですが、進学先となった昌平高校は、どのように選んだのですか?

ホール サッカーの指導者の方に話を聞いて、県内の高校サッカー部のセレクションをいくつか受けました。でも、自分の中では高校に進んだらバスケをやろうかなと思っていました。畔川先生が見に来てくれて、声をかけてもらったので昌平に来ました。

 ただ、全国大会に出ているようなチーム(※昌平高は、インターハイ=高校総体14回、ウインターカップ10回出場の実績がある)だとは知らなかったので、来てからびっくりしました。周りの選手は、みんなうまいし、大変でしたね(笑)。

 僕は、3秒ルール(ペイントエリアに攻撃の選手が3秒までとどまることができるルール)とか、バックコート・バイオレーション(攻撃時に敵陣から自陣にボールを戻してはいけないルール)など、知らないルールもありましたから。試合中に先生に怒られて、覚えていきました。主にセンターでプレーしています。

身長188センチのホールはダンクも軽々とする身体能力の持ち主 【平野貴也】

畔川HC 彼が通っていた原市中の講師が、私の教え子だったのです。「ダンクもできちゃう、すごいやつがいるので、見に来て下さい」と言われて、中学3年の5月くらいに練習を見に行って知ったというのがきっかけです。すぐに、うちに欲しいと思いました。

 ただ、彼はサッカーの強豪校のセレクションを受けているということだったので、親御さんに話を聞きにいきました。すると、お母さんがバスケ経験者で、僕がまだ昌平高で男女両方のチームを指導していたときに対戦したことがあって、僕のことを知っていました。そこでお母さんに「バスケの方が向いているんじゃないですか」と話をしまして(笑)。

 うちはサッカー部も力を入れていますから、監督をやっている藤島崇之先生に「一緒に誘いにいって、『入学したらどっちの部活を選んでもいい』と言いにいこう」と言ったこともありました。何しろ、身体能力に恵まれていることは間違いありませんでしたから、ラグビー部の顧問も関心を示したくらいです。最終的には、スラムダンク奨学金の話をして、彼のルーツでもある米国を一緒に目指そうと言いました。本校OBの山崎稜(栃木ブレックス)が第4回奨学生でしたので、彼の話もしました。

ホール「米国でプレーするならガードになると思う」

――ホール選手は、スラムダンク奨学金の話をどのように受け取ったのですか。また実際に合格を受け取って、どうでしたか。米国でのプレーイメージはできていますか?

ホール 父親が米国人なので、興味はありました。でも、バスケで順調に成長できたら米国に挑戦できるのかなとイメージしたくらいで、現実的には考えられませんでした。無理だろうと(笑)。実際に考えるようになったのは、チームでレギュラーになって進路のことを考え始めた高校2年の後半です。

 挑戦できたらいいなと思うようになりました。バスケの本場である米国でやってみたいという気持ちが、とにかく一番大きかったです。Bリーグでやろうと考えたら、関東の大学がいいだろうなと思ったので、悩みましたけれど。

畔川HC ちょうど1年前、2年生の冬にスラムダンク奨学金の申し込みをしました。ただ、すでに関東の強豪大学から推薦入学のお話もきていたので、悩ましい部分がありました。スラムダンク奨学金は、申し込んでも合格する保証はありません。落選するケースを考えると、大学の話は早い時期の方が好条件を得やすいですから難しいところでもあります。

 ただ、それでも本人の決断は「とにかくチャレンジしたい」ということでしたので、書類とDVDを準備して応募しました。審査に通って、最後のトライアウト(実地試験)を受けたのが、今年の4月です。戻ってきたときに「どこのポジションでプレーしたのか?」と聞いたら、やったことのないガードだったと言ったので「じゃあ、無理かな」と諦めていたのですが(笑)。合格の知らせをいただきました。

ホール (ガードは)まったくやったことがなかったのですが、いきなり2番ポジション(シューティングガード)で起用されて、大変でした(笑)。見よう見まねで何とかしたという感じでした。

 外からのシュートは好きですし、苦手ではないですけれど。NCAA(全米大学体育協会)のリーグで八村塁選手(ゴンザガ大)や渡邊雄太選手(ジョージワシントン大)がプレーしている姿をよく見ていて憧れているのですが、自分があの中でプレーするとしたら、やっぱりガードのポジションになると思います。今はまだ全然ダメなので、パスとか周りを生かすプレーをもっと覚えないといけないと思います。

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著者プロフィール

1979年生まれ。東京都出身。専修大学卒業後、スポーツ総合サイト「スポーツナビ」の編集記者を経て2008年からフリーライターとなる。主に育成年代のサッカーを取材。2009年からJリーグの大宮アルディージャでオフィシャルライターを務めている。

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