1997年 ジョホールバルとJの危機<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

サッカーミュージアムの地下書庫にて

日本中が「ジョホールバルの歓喜」に沸いた97年。Jリーグは観客動員が伸び悩み、危機を迎えていた 【写真:FAR EAST PRESS/アフロ】

 東京・御茶ノ水にあるJFAハウスに、取材以外で訪れるのは滅多にないことだ。とある火曜日の午後、併設された日本サッカーミュージアムの地下1階に降りて、500円のチケットを購入。よく見ると、1998年ワールドカップ(W杯)のチケットを模したデザインになっているではいないか。いくつかバリエーションがあるようで、私が購入したものには「ARGENTINA−JAPAN」という印字。日本が初めてW杯のピッチに立った記念すべき一戦は、しかし多くの日本人サポーターがチケット難民となった悲劇とセットになって記憶されている。そんなことを思い出しながら、日本サッカー殿堂の展示スペースを抜けて、この日の訪問先であるレファレンスルームにたどり着いた。

 ミュージアムに何度か足を運んだ人でも、このレファレンスルームの存在を知っている人は、そう多くはないだろう。HPによれば「サッカー関連図書2000点、各種大会関連資料4500点を含む約2万点を収蔵」しているとのこと。ただし事前の予約と利用目的を明らかにした上で、審査が通って初めて資料の閲覧が可能となる。入室すると、リクエストしてあった1997年のサッカーマガジン(以下、マガジン)、そしてサッカーダイジェスト(以下、ダイジェスト)がぎっしり並べてあった。この年のJリーグ開幕特集号の表紙は、マガジンが中村俊輔、ダイジェストが柳沢敦。中村は97年、柳沢はその前年に、いずれも高卒ルーキーとしてプロデビューし、のちに日本代表として活躍している。

「Jリーグ25周年」を、当事者たちの証言に基づきながら振り返る当連載。第10回の今回は、1997年(平成9年)をピックアップする。サッカーファンにとっては、日本が初めてワールドカップ(W杯)初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」として記憶されるこの年だが、国内リーグはまったくと言っていいほど振るわなかった。Jリーグの平均入場者数は1万131人。前年と比べて24.1%も落ち込んでおり、トップリーグの数字としては歴代最低となっている。後述するように、W杯最終予選との日程のバッティングの影響もあっただろうが、それにしても惨憺(さんたん)たる数字であることに変わりはない。

 97年といえば、消費税の負担増(3%から5%)と緊縮財政で景気悪化が顕著となり、北海道拓殖銀行と山一證券が相次いで破綻。断続的に続く平成不況の中でも、とりわけ日本経済が低迷期にあったころである。そんな中、意外と元気だったのが出版業界であった。すべての出版物の販売金額は96年がピークであったが、雑誌が最も売れたのが翌97年で推定総額は1兆5,644億円。つまり97年という年は、Jリーグ人気の凋落(ちょうらく)傾向が顕著だった一方で、サッカーマガジンやサッカーダイジェストなどの専門誌界隈は、今では考えられないくらい活況を呈していたのである。そこで今回は、「サッカー専門誌」という観点から、この97年という時代を振り返ることにしたい。

マガジン、イレブン、そしてダイジェスト

マガジンの副編集長を務めていた伊東。「プロ化に向けて、業界全体がざわついていた時期だった」と90年の入社当時を振り返る 【宇都宮徹壱】

 再び、レファレンスルームにて、97年当時のマガジンとダイジェストを読み比べて、専門誌が元気だった時代に思いをはせる。あの当時、キヨスクに行けば必ず両誌が置いてあって、サッカーファンは「マガジン派」と「ダイジェスト派」にはっきり分かれていた。ちなみに「マガジンは王道、ダイジェストはカウンター」というのがファンの間での一般的な認識である。

 当時のマガジンの編集長は千野圭一、そしてダイジェストの編集長は六川亨。本当は両者に話を聞きたかったのだが、千野は12年に58歳で物故しているため、マガジンについては当時の副編集長で、翌98年から編集長となる伊東武彦にアポイントをとった。伊東は、88年に休刊した『イレブン』編集部を経て、90年のW杯イタリア大会直前にマガジンの版元であるベースボール・マガジン社に入社。当時29歳であった。

「千野さん(の編集長時代)は長かったですね。20代で就任して16年やっていました。当時は月刊誌なので、千野さん以下5人か6人くらいの編集部に僕が入ってきた。その頃は『(日本サッカー)冬の時代』などと呼ばれていましたが、僕は『夜明け前』だったと思っています。88年にプロリーグ検討委員会の前身となるJSL(日本サッカーリーグ)活性化委員会が始まっていたし、カズ(三浦知良)がブラジルから帰ってきて、読売クラブに移籍してきたのが90年。ですから『本当にプロ化できるのか?』という疑心暗鬼はある一方で、『もしかしたら』という感じで業界全体がざわついていたという感じだったと思います」

 一方の六川は、大学時代のアルバイトを経てダイジェストの版元である日本スポーツ企画出版に入社したのが81年。よく顔を出していた新宿の飲み屋で知り合った、ダイジェスト編集部の人間の「ウチはサッカーを知らない人間が本を作っている」という一言がきっかけであった。そこで大学4年の冬、アルバイトとして高校選手権を取材。その仕事ぶりが認められて、卒業後に業界入りとなった。

「入社して最初に担当したのが、一番マイナーだった日本代表と日本リーグ。当時の花形は高校サッカーか、夏の全少(全日本少年サッカー大会)。そっちのほうがメジャーでしたし、雑誌としても前面に出していたんですよね。業界的には、マガジンが国内サッカーの本流、イレブンが海外サッカー、そしてダイジェストは少年という住み分け。でも、僕が編集長になった次の年(88年)に、イレブンが休刊になったんです。そこからダイジェストは海外路線に切り替えました。ちょうどACミランに(ルート・)フリット、(フランク・)ライカールト、(マルコ)ファン・バステンのオランダトリオが出てきたころですね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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