1999年 J2元年の劇的な最終節<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
J2開幕前夜のFC東京と大分
W杯日韓大会に向けたスタジアム建設が進んでいた大分。その過程で生まれたのが大分トリニータだ 【写真:アフロスポーツ】
「97年にはJ2への加盟申請をしていましたね。東京ガスの部長だった鳥原(光憲)さんからは『間違いなく将来は(Jを)目指すから』というお言葉をいただいていました。すでにエドウィン(・イファニー)とかアマラオといった外国人選手はいましたが、基本的には藤山(竜仁)や浅利(悟)のような社員選手が頑張っているチームでした。その年の12月に準加盟が認められ、翌98年にJFL優勝を果たして、いよいよFC東京としてJ2の舞台で戦えることになったんです」
一方で、間近に迫っていた2002年のW杯日韓大会もまた、Jクラブの増加に少なからぬ影響を及ぼしていた。開催地に選ばれた大分や新潟では、W杯に向けたスタジアム建設が進んでいたものの、4万人以上を収容する施設の大会後の活用が課題となっていた。そこで生まれたのが大分FC(のちの大分トリニータ)であり、アルビレオ新潟FC(のちのアルビレックス新潟)。前者は96年、後者は98年、それぞれ全国地域リーグ決勝大会を勝ち上がって、JFL昇格を果たしている。98年に山形をJFL3位に押し上げ、翌99年から大分で指揮を執ることになっていた石崎は、当時の大分の状況をこう証言する。
「とにかく環境面で、まったく恵まれていませんでしたね。まず練習場の確保が大変。市陸(大分市営陸上競技場)は使わせてくれなかったので、午前中は大洲にある体育館で筋トレをやって、午後は車で30分くらい離れた犬飼のグラウンドで練習していました。クラブハウスもないし、グラウンドは土だし、運営組織も未整備な部分がたくさんありました。でも、そういったクラブにも声をかけないと、J2は成り立たなかったんでしょうね」
<後編(12/28掲載予定)につづく。文中敬称略>