Jクラブが阿波おどりに参加する理由 J2・J3漫遊記 徳島ヴォルティス<後編>

宇都宮徹壱

徳島のパブリック・イメージとしての阿波おどり

毎年8月、クラブは「ヴォルティス連」として参加している 【(C)TOKUSHIMA VORTIS】

 ここで、徳島ヴォルティスの歴史をたどる旅から、いったん脇道にそれることにしたい。皆さんは「徳島県」と聞いて、最初に何をイメージするだろうか? すだちやなると金時などの農産物。阿波尾鶏や阿波牛などの畜産物。あるいは徳島ラーメン、半田そうめん、祖谷そば、たらいうどんなどの徳島四代麺──といったところが、県の特産品として知られている。とはいえ、徳島といえば誰もがイメージするのは、間違いなく「阿波おどり」であろう。余談ながら徳島の空港は「徳島阿波おどり空港」という。

 ある徳島出身者は語る。「徳島県は関西の影響をもろに受けているんですよね。地元の民放局も四国放送しかなくて、あとは全部関西からの電波です。そんな中、徳島が全国に発信できるものは何かといえば、それはもう阿波おどりしかないわけですよ」。毎年、全国から多くの観光客を集めて行われる阿波おどりは、8月12日から15日にかけて、文字通り県を挙げての祭典となる。そして、その年の阿波おどりが終わると、すぐさま翌年の阿波おどりに向けた準備が始まる。まさに、リオのカーニバルのようだ。

 実はクラブは毎年、徳島市阿波おどりに「徳島ヴォルティス連」として参加している。今年も8月12日に、藍場浜演舞場にて選手・スタッフが青と白のそろいのハッピを着て踊りを披露、会場を大いに盛り上げていた。とりわけ人々の目を引いたのが、今年からチームを率いているスペイン人のリカルド・ロドリゲス監督。クラブにとって初めての外国人監督ということで、どういうリアクションを示すのかひそかに注目されていた。すると当日、ロドリゲス監督はハッピにねじり鉢巻姿で登場。初めてとは思えない、巧みな手さばき足さばきを見せたことで、サポーターのみならず地元住民の心をわしづかみにした。

 ヴォルティス連の参加が始まったのは、2005年から。まさに、徳島の「Jリーグ元年」とともにスタートしている。そして(意外と知られていないことだが)、徳島はこの年を端緒として、一度も欠かすことなく阿波おどりへの参加を続けているのである。実のところ、徳島が真の意味で地域から愛されるクラブになるのに、この阿波おどりへの参加は不可欠であった。さらに言えば、プロスポーツ不毛の地においてクラブが確固たる地位を築く上でも、阿波おどりは極めて重要な意味を持っていたのである。

「Jクラブ」を公約した県知事選とサッカー未経験のGM

徳島の初代GMだった米田豊彦(現徳島新聞社社長)は「ヴォルティス連」の発案者でもある 【宇都宮徹壱】

「プロスポーツを知らない四国の人たちに、サッカーを通じてその感動をぜひ味わってもらいたい。そして若い人を中心に、さらには中高年の皆さんにも楽しんでいただきたいという思いがありました。確かに、一度失敗したということがあるのは事実です。しかし、だからこそ余計に再チャレンジしていいんじゃないかと考えました」

 03年に徳島県知事に就任した飯泉嘉門は、旧自治省の出身。新潟県、山梨県、埼玉県、旧郵政省、そして徳島県への出向経験があり、出向先では何かとサッカーと縁があったという。山梨県時代にはヴァンフォーレ甲府の小瀬スポーツ公園陸上競技場の改修、埼玉県時代は埼玉スタジアム2002の建設に尽力した。さらに旧郵政省時代には、JAWOC(02年FIFAワールドカップ日本組織委員会)の情報通信委員会のメンバーとなり、ここでJリーグチェアマンだった川淵三郎の知遇を得ることとなる。そんな飯泉にとり、知事選公約に「徳島にJクラブを作る」ことを掲げるのは自然なことであった。続きを聞こう。

「実は私が当選してからヴォルティスができるまで、ものすごく応援していただいたのが川淵さんであり、甲府の社長だった海野(一幸)さんでした。特に海野さんの講演は、非常に具体的で分かりやすかったですね。たとえば『お金を出すだけがスポンサーではない。クリーニング屋さんが選手のユニホームを洗ってくれる。床屋さんが選手の散髪をしてくれる。できることから協力することが大事なんです』というお話ですとか。あと『実は甲府は、徳島よりも人口が少ないんですよ』というお話も説得力がありましたね」

 その一方で公約を果たすべく、新会社設立に向けた動きもスタートする。社長には大塚グループから高本浩司を、そしてGMには徳島新聞社から米田豊彦を出向で招くことになった。先に着任したのは米田だったが、GMと言いながらもクラブ経営はもとより、サッカーそのものがまるで未経験。その変わり新聞社の事業部長として、地元のスポーツ興行はいくつも手掛けてきた。その実績を買われての抜てきであったが「社命とはいえ、とにかく大変でしたよ」と、徳島新聞社の現社長はGM時代の苦労をこう振り返る。

「あれは忘れもしない、阿波おどりが終わった(04年)8月16日ですよ。『Jクラブの新会社のGMをやってくれ』と。といっても、まだ会社はできていないし、事務所もなければスタッフもいない。とりあえず倉庫の2階の一室を借りて、そこからですよ。準備期間は4カ月。監督や強化担当などの人事から、ユニホームやエンブレムの決定から、あとはスタジアムのこととか、全部イチから始めなければならない。選手の年俸がいくらなんて、まったく知らなかったですから、すべてが手探りの状態でした。その後、徐々にスタッフが入ってきましたが、翌年3月5日の開幕まで、毎日のように徹夜でしたね」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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