Jクラブが阿波おどりに参加する理由 J2・J3漫遊記 徳島ヴォルティス<後編>
徳島のパブリック・イメージとしての阿波おどり
毎年8月、クラブは「ヴォルティス連」として参加している 【(C)TOKUSHIMA VORTIS】
ある徳島出身者は語る。「徳島県は関西の影響をもろに受けているんですよね。地元の民放局も四国放送しかなくて、あとは全部関西からの電波です。そんな中、徳島が全国に発信できるものは何かといえば、それはもう阿波おどりしかないわけですよ」。毎年、全国から多くの観光客を集めて行われる阿波おどりは、8月12日から15日にかけて、文字通り県を挙げての祭典となる。そして、その年の阿波おどりが終わると、すぐさま翌年の阿波おどりに向けた準備が始まる。まさに、リオのカーニバルのようだ。
実はクラブは毎年、徳島市阿波おどりに「徳島ヴォルティス連」として参加している。今年も8月12日に、藍場浜演舞場にて選手・スタッフが青と白のそろいのハッピを着て踊りを披露、会場を大いに盛り上げていた。とりわけ人々の目を引いたのが、今年からチームを率いているスペイン人のリカルド・ロドリゲス監督。クラブにとって初めての外国人監督ということで、どういうリアクションを示すのかひそかに注目されていた。すると当日、ロドリゲス監督はハッピにねじり鉢巻姿で登場。初めてとは思えない、巧みな手さばき足さばきを見せたことで、サポーターのみならず地元住民の心をわしづかみにした。
ヴォルティス連の参加が始まったのは、2005年から。まさに、徳島の「Jリーグ元年」とともにスタートしている。そして(意外と知られていないことだが)、徳島はこの年を端緒として、一度も欠かすことなく阿波おどりへの参加を続けているのである。実のところ、徳島が真の意味で地域から愛されるクラブになるのに、この阿波おどりへの参加は不可欠であった。さらに言えば、プロスポーツ不毛の地においてクラブが確固たる地位を築く上でも、阿波おどりは極めて重要な意味を持っていたのである。
「Jクラブ」を公約した県知事選とサッカー未経験のGM
徳島の初代GMだった米田豊彦(現徳島新聞社社長)は「ヴォルティス連」の発案者でもある 【宇都宮徹壱】
03年に徳島県知事に就任した飯泉嘉門は、旧自治省の出身。新潟県、山梨県、埼玉県、旧郵政省、そして徳島県への出向経験があり、出向先では何かとサッカーと縁があったという。山梨県時代にはヴァンフォーレ甲府の小瀬スポーツ公園陸上競技場の改修、埼玉県時代は埼玉スタジアム2002の建設に尽力した。さらに旧郵政省時代には、JAWOC(02年FIFAワールドカップ日本組織委員会)の情報通信委員会のメンバーとなり、ここでJリーグチェアマンだった川淵三郎の知遇を得ることとなる。そんな飯泉にとり、知事選公約に「徳島にJクラブを作る」ことを掲げるのは自然なことであった。続きを聞こう。
「実は私が当選してからヴォルティスができるまで、ものすごく応援していただいたのが川淵さんであり、甲府の社長だった海野(一幸)さんでした。特に海野さんの講演は、非常に具体的で分かりやすかったですね。たとえば『お金を出すだけがスポンサーではない。クリーニング屋さんが選手のユニホームを洗ってくれる。床屋さんが選手の散髪をしてくれる。できることから協力することが大事なんです』というお話ですとか。あと『実は甲府は、徳島よりも人口が少ないんですよ』というお話も説得力がありましたね」
その一方で公約を果たすべく、新会社設立に向けた動きもスタートする。社長には大塚グループから高本浩司を、そしてGMには徳島新聞社から米田豊彦を出向で招くことになった。先に着任したのは米田だったが、GMと言いながらもクラブ経営はもとより、サッカーそのものがまるで未経験。その変わり新聞社の事業部長として、地元のスポーツ興行はいくつも手掛けてきた。その実績を買われての抜てきであったが「社命とはいえ、とにかく大変でしたよ」と、徳島新聞社の現社長はGM時代の苦労をこう振り返る。
「あれは忘れもしない、阿波おどりが終わった(04年)8月16日ですよ。『Jクラブの新会社のGMをやってくれ』と。といっても、まだ会社はできていないし、事務所もなければスタッフもいない。とりあえず倉庫の2階の一室を借りて、そこからですよ。準備期間は4カ月。監督や強化担当などの人事から、ユニホームやエンブレムの決定から、あとはスタジアムのこととか、全部イチから始めなければならない。選手の年俸がいくらなんて、まったく知らなかったですから、すべてが手探りの状態でした。その後、徐々にスタッフが入ってきましたが、翌年3月5日の開幕まで、毎日のように徹夜でしたね」